089:救急病棟24時。(平成11年1月27日)
トゥルルー、トゥルルー、トゥルルー。
深夜午前2時過ぎ、先ほど急性心筋梗塞でかつぎ込まれた老女の救急処置を終えて、ようやく当直室へもどり、ベッドでの心地よい眠りに入ろうとしていた矢先に、当直の看護婦からけたたましい音の電話が入った。
<またか?>
と思いながら、進藤は受話器を取った。
「はい、進藤です」
「今し方、救急隊から連絡が入り、小学4年生の喘息の子が発作を起こし意識不明で搬入されるとのことです。処置室までお願いします」
「はい、わかりました」
そういえば、かすかにピィーポ、ピィーポという救急車のサイレンの音がする。病院に近づくときはドップラー効果で高い音色がするのでよくわかる。そのサイレンの音は確実に音量を増して近づいて来る。進藤は、脱ぎ捨てた白衣をもう一度羽織り、髪を軽く整えて、足早に救急処置室へと向かった。
救急処置室につくと、サイレンの音は止まり、窓越しに救急車の赤いランプが点滅しているのが見える。
<今着いたばかりだな>
と思うまもなく、扉がどーんと開いて、酸素マスクをつけられた少年がタンカーで担ぎ込まれた。母親が、顔面蒼白になり身を乗り出すように付き添っている。
「せっ、先生。だっ、大丈夫でしょうか? よっ、宜しくお願いします」
少年は意識がなく、全身がチアノーゼで真っ青だ。
「すぐ血管確保。ソリタ500!」
脈はかすかに触れる。非常に浅くて早い。聴診器を胸に当てるが、呼吸音はない。
<呼吸停止して間もないな>
アンビューバッグで酸素を押し込むが、頬が膨らむだけで肺には空気が入らない。
「挿管準備。子供用の細いカニューレね。それから心電図モニターとサチュレーションモニターも」
心拍数200。酸素濃度40%。一刻を争う危険な状態だ。
進藤は、少年を仰臥位にして酸素マスクをはずし、指で口をこじ開ける。しかし、唾液などが詰まってよく中が見えない。
「吸引!」
ジュル、ジュル、ジュル。
とりあえず、口の中をきれいにする。
次に喉頭鏡で覗き、喉頭を直視しチューブを挿入する。しかしなかなか入らない。
救急隊員や母親が不安そうに立ち尽くし、息をのんで見守っている。
何回かの試行錯誤でするっとチューブが気管に入る。
<ほっ>
カフを膨らませ気管壁に密着させる。アンビューバッグをつなぎ、100%酸素を送り込む。進藤はアンビューバッグをもみながら、聴診器を少年の胸に当てる。しかし肺は膨らまない。アンビューバッグは硬い。
<痰が詰まっているな>
「吸引。目一杯強くして!」
進藤はアンビューバッグをはずし、吸引チューブをねじ込む。
ズルッ、ズルッ。
しかし、なかなか痰が引けない。
<気管支を広げよう>
「点滴にネオフィリン1Aとサクシゾン500入れて。ビソルボン1Aもね。それから、ボスミン1/4A皮下注!」
進藤は再度吸引チューブをねじ込む。しかし、まだ何も引けない。
「ビソルボンもう1A。注射器に入れて」
進藤は、気管チューブから直接ビソルボンを振りかけた。少しでも詰まっている痰を柔らかくするわけだ。
「もう一回吸引!」
ジュル、ジュル、ジュル。
引けそうで引けない。進藤はさらに少年の胸を大きな拳でドンドンと叩く。一見可哀想だが、痰を出すためだ。仕方がない。
ドンドン、ドンドン。
ジュルッ、ジュルッ、ジュルッ、ジュルルーーッ。
<ひっ、引けた! 痰が引けた!>
「なんて硬てー痰なんだ」
ジュルルーーッ、ジュルルーーッ。
その硬い痰が取れると、なんと言うことだろう、次から次へ分泌物が芋蔓式に吸引できたのだ。
<こんなになるまで放っておいて…。まったく!>
進藤はアンビューバッグで必至に酸素を送り込む。先ほどとは全然違いバッグは柔らかい。聴診器を当てると両肺に空気の入る音がする。
<やった!>
サチュレーションが、40%から、60%、80%、90%、95%とみるみる上昇する。少年のチアノーゼもとれ、赤みを取り戻す。
<よーし>
「レスピレータ!」
進藤は、アンビューバッグをはずし、レスピレータへチューブを連結する。
<とりあえず一回250の、15回くらいか?>
レスピレータの設定をする。これでようやく進藤の両手が空いた。
「ふーっ」
全身汗ビッショリだ。
「啓介!」
と母親が少年の頬を叩く。その時、かすかに少年の瞼が開いた。
「うっ、うっ」
挿管されているので、声がでない。しかし、明らかに意識は戻った。
「啓介!」
母親は、喜んび勇んで息子の手を握る。
「先生ありがとうございますぅ」
「あと2、3分遅れたら命がなかったでしょうね」
進藤は、しみじみと言う。
「病棟空いてる?」
「はい。203号室なら空いています」
と看護婦。
「じゃ、このまま病棟に上げよう。それから指示をするから」
母親の話によると、ここ1週間風邪気味で、ほぼ毎日発作を起こしていたが、ベロテックで対処していたという。吸入ステロイドは、かかりつけの小児科医では、その名前さえ出てこなかったという。夜になっても発作が治まらず、ベロテックで様子を見ていたが、突然もがき出して意識がなくなったという。
進藤は、救急隊への搬入報告書に、
「病名:気管支喘息重積発作、意識消失、重症度:重症…」
と必要事項を書き込み、
「ご苦労様でした」
と救急隊に会釈して、少年とともに病棟へ上がった。
いつのまにか空はもう白んできていた。