「また点滴かよ? 君はよほど点滴が好きなんだね」と医者から。
「気管支喘息」と告げられたのが1988年3月、今年で9年目を迎えました。昭和の時代が終わろうとしていた12月の暮れに熱と咳があり、いつもの風邪と思い、ホームドクターを受診しました。年明けの1月には熱も下がっていたのですが、咳と痰が続いていました。レントゲン検査を受けましたが、肺炎の兆候もありませんでした。時が過ぎれば自然に良くなるだろう、くらいに思い通院を止めていました。気が付いた時にはゼイゼイ、ヒューヒューという音が鳴っており、息苦しさで横になれず、眠れない夜がありました。
当時、ショッピングセンターの地下飲食街にテナント従業員として勤めていました。その時突然咳込みが激しく続き、喉が締め付けられる様な息苦しさが起こり、意識が薄れて行くのを感じたのです。いつもの風邪とは違うと思い、翌日大きな病院を受診したのです。その時の病名を診断するあたり、いろいろな検査をやっていただいた様な気がします。その検査の中でも喘息の発作の要因となる皮内テストも行われ、結果はすべて陰性だったと記憶しております。それでも職場に入るとほうじ茶の焙煎する煙と臭いに咳込みが激しくなるのです。咳が続くと体の中にソーダ水でも入れられた様になり、手や足がチカチカし皮膚が青白くなり、頭が朦朧とし、意識が薄れて行くのです。
発作を誘発する原因は他にも沢山あります。コーヒーの臭い、特にマシンでたてるコーヒーの臭いは眼痛や頭痛も引き起こすのです。タバコ、油、ラーメン屋で煮るチャーシューの臭い等は最悪の状態に陥りました。日を重ねる事に苦しさが増すようになり、吸入の気管支拡張剤が手放せなくなっていました。一時期にはその拡張剤を2時間ごとに吸引しながら働いておりました。
臭いによる喉の詰まりと息苦しさ、動悸が常に起きている状態でしたので、物を持ったり、体を動かすことが辛くなっていました。職場に入る階段の一段がいつの間にか昇れなくなっていたのです。他人様は「季節が変われば病気も良くなるよ」、「更年期の時期だから」、「歳まわりが悪いから」とたくさんの慰めを言ってくれましたが、良くなる兆しは見えませんでした。それどころか、春夏秋冬の季節を問わず、早朝、深夜と頻繁に発作は起こり、その都度救急外来に駆け込み点滴を受けなければなりませんでした。
いつの頃からか、喘鳴が出なくなっており、診察の時でも喘鳴は聞こえないと言われるようになっていました。それでも喉にはいつもフィルターがはめられているような詰まりがあり、息苦しさは常時ありました。深夜に発作が起こり、救急外来に駆け込んだのですが、
「喘鳴が聞こえないので喘息ではないですね」
と言われ、点滴はやってもらえず、苦しさと辛さに喘息を恨み、泣きながら帰宅せざるを得なかったことが何度かありました。
これはまた、そんなに夜遅くない時間でした。喉の締め付けと上胸部の圧迫による息苦しさに襲われ、何度か拡張剤を吸ったのですが、発作は治まらず病院に走ったのです。その夜の当直医は呼吸器の先生で、前にも何回か診察をして頂いた先生でしたので内心ほっとしたものを感じました。しかし、
「喘鳴が聞こえないのでステロイドは必要ないね」
と言い切ったのです。点滴を始めて30分が過ぎても息苦しさは止まらず、それどころか体の力が抜ける様に意識が薄れていくのです。名前を呼ぶ看護婦さんの声を何度か聞いたように思います。
「主治医の先生の通りにステロイド点滴をお願いできませんか。処方指示も出ていますし、内科外来でも受けている患者さんですから」
と見かねた看護婦さんが助け船を出してくれたのですが、
「あと30分位様子をみよう。それでも駄目ならその時に足すから」
この時の苦しさはさることながら、辛さと不安が募ったことが忘れられません。その後30分が経過しても苦しさは治まらず、外したステロイド薬を入れてもらう。呼吸が楽になる、悔し涙を堪えた。
「あなたは喘息ではないんじゃないか?」
と言って同じベッドに腰を降ろし顔を覗き込む。
「それなら先生は私の病気をどう診断されますか?」
「わからない…」
この言葉がその晩の当直医、呼吸器専門のドクターの答えでした。この様な不確かな答えを聞かされた時、私たち患者はどうすればよいのでしょうか。
発作は治まっていても空気の薄さを常に感じ声がかすれている。声に力が入ると、息苦しさが起き、会話が辛くなる。こんな病状を誰にわかってもらえるのですか? 呼吸が楽にできればスローペースながらも動ける、台所に立つ喜びも味わえる。こんなささやかな喜びなど誰にもわからないだろうと思います。ピークフロー値が下がる。ただただ息苦しさが始まると動けず座り込む。柱や壁に寄りかかり吸入剤を握り締め、苦しさが治まるのを待つだけ。咳込まず、痰も出ず、喘息もない。それでいて臭いや僅な動きで呼吸困難が起こる。
そんな自分の病気が信じられず、
「私は本当に喘息なのですか?」
と何回も何回も主治医の先生に聞き返してきました。先生の返事は決まって“喘息”でした。
「発作の誘発もピークフローの数値も人それそれ個人差がある、他人様と比較してはいけない。自分の数値を知り維持することが一番大切」
と諭されながらもあまりにも違いすぎる症状に心が病むのです。発作は場所も時も選ばず、静かに容赦なく襲って来る。それは苦しさを遥かに超える恐怖です。心のどこかで“生きる”ことへの疑問を持ち始めていました。
体を動かすことでセカセカし息切れが起き歯を磨く僅かな時も立っていられず座り込む。洗面台にもたれ、やっとの思いで磨き終える。シャンプーもその日の体調と相談、シャワーやお風呂も同じ相談の上自分の体を自分で洗うこともできない。自分一人でお風呂に入れないなんて健康な時には考えてもみなかった事でした。それが現実として起きている状況でした。
私の喘息発作を誘発させる原因は極端な過敏状態が起きることにある様で、日常生活におけるすべての臭いと言っても決して過言ではないと思います。タバコ、線香、香、香水、石鹸、シャンプー、そしてコーヒー、干し椎茸を戻す時の匂い、ゴマ油、ラー油とゴマの香りがする物全部、そして咲く草花の匂い、煮物、焼物、炒め物と夕食の準備時には最悪に陥ります。3度の食事が食べられず、体重が26キロも減り、1人で立ち上がれない恐ろしさも知りました。指に力が入らず字が書けない、3枚複写はなおのことであり、下の用紙には字が残らない。すべてが辛く臥床の日が多くなる。すると家族も苛立ちを露にするようになり、会話も消えていました。家事や孫の世話は愚か、自分の身の回りのこともできない。そんな自分をわかってもらえない僻と、動けない自分は単なる怠け者で、動く気持ちがあれば動けるのではないか?と心の中でいつも葛藤しながら孤立していました。居場所が無い無用の長物、粗大ゴミと思い込むようになり、惨めさが生きることの無意味さを感じていました。
1996年1月、近年には見られない大雪となり、寒い日が続いていました。咳と痰、喉の痛み、風邪が元となり発作が起き、記録していたピークフロー値も下がり、時には吹けない日もあり、先生からは入院の声も出されていました。が、前回の入院で病状を理解してもらえず、辛い入院生活を虐げられた経験をしたため、通院しながら外来で点滴を受けさせて頂くという我がままを聞き入れてもらうことになったのです。
車のハンドルを廻せず、駐車場から歩くことができない。病院の玄関まで送ってもらうが、そこから内科外来受付までの僅かな距離を歩くだけで上胸部の圧迫息苦しさで立ち止まること数回、深く息を吸い込み呼吸を整えるが、一歩踏み出す辛さ、体に力が入ることで呼吸困難が始まる。ゆっくりゆっくり歩き待合椅子にたどり着き、診察の順番を待つのですが、タバコの臭いを持った人が近づいたり、隣に座られたりすると即喉にイガイガと締め付けが起き苦しくなる。そのつど席を移動しなければならない。整髪料、香水等によっても呼吸困難が起こる為、それもまた通院の辛さでもありました。
そんな状況の中で点滴を受けていますと、
「また点滴かよ。君はよほど点滴が好きなんだね」
と横目で見、足早に通りすぎて行くかつての主治医。そんな時鋭い刃物で刺された思いで胸が痛む。一連の屈辱に耐え忍ばなければならないのも私のような患者には宿命なのかもしれません。
主婦であることを家族に宣言したくて台所に立ち、エプロンをかけてみる。これがまた体にずっしりと重さを感じさせる。大根を持つ手に力が入らずおろしができない。秋のお彼岸、亡き母の大好きだった太巻寿司を供えたくて玉子焼を焼いてみるが返せない。フライパンの重さと油の臭い、上半身の動きが苦しくする。泣くまいと必死に耐えるが涙は落ちる…。そんな自分が情けなくてその場に座り込み、声を出して泣いた。
夏が短かった。秋の終を告げる頃に近く野山や畑の田んぼの野焼きの煙の臭いが立ちこめていた。夏に敷いたい草畳のあの強烈な臭いに勝るひどい臭いが雪の降る12月まで続き、イガイガと喉の詰まり、眼痛、頭痛、胸部の圧迫、空気の薄さがいつも呼吸困難を引き起こしていた。動悸が伴い動けない、ピークフローは下り続ける。衣類に付いたタバコの臭い、新聞のインクの臭い、寒暖の差に声が出ず、会話が苦しくなる。横になれず眠れない夜を過ごすことが度重なっていた。病院に出る以外はまったく外出できない。息苦しさとけだるさで身の置き場が無い状態でした。
外来受診日には決まって点滴を受けていました。平日は内科外来処置室で、土・日は救急外来と今年2回目の連日で受ける点滴が決まった時、前回のことが頭をよぎり点滴を受け続けることへの罪悪感を感じずにはいられませんでした。
「青色信号による快適な生活を過ごしてみませんか」「家族や医療従事者に迷惑をかけていませんか」と書かれた7ページの手作りミニブックを主治医の先生に手渡された時、私も生きられる、そう思えました。そのミニブックには気管支喘息の病態、ピークフロー値の変化、対応する症状が図解されてあり、またステロイドによる全身治療、ステロイドの副作用が克明に書き記されていたからです。大きな病院の大きな組織の中で、喘息の治療として初めて試みる先生には並々ならぬご苦労があったことは、入院の許可が出て実際に入院できたことで初めて知ることができました。それだけにこの入院治療に関してはどんなことがあろうと成功させなければならないという使命感が私の心の中にありました。入院の治療目的は“ピークフロー値を500まで上げること”でした。
入院病棟まで歩き、パジャマに着替える。息苦しさが起きる。朝食のゴマ油の臭いに入院中の食事が不安になる。
その夜からステロイドの点滴の治療が開始された。土・日のお見舞客、入退院に付き添って来られる方、他の患者さんの診察に来られる先生方のタバコ等の臭いに病院に居ながらにして悩む。治療の効果が予想外に現われない。また病棟主治医の若い先生との意志の疎通がとれず、私の心の中では焦りが起きていました。総廻診に同行する呼吸器の先生方の小さな声の囁きあう視線が冷たく感じたのも6回目の入院を繰り返している私の僻かも知れませんが辛かった。
入院18日目にして目標値500を達成できたその時のうれしさに涙が止まりませんでした。午後の検温に来られた看護婦さんに泣き顔を見られるのが恥ずかしくて
「差し込む太陽が眩しすぎる」
と、バスタオルで顔を隠す。
「絶対に良くなるから」
と病室に来られる度に繰り返し励まし続けてくれた先生。聴診器を使った診察は一度もなさらず、ピークフローの吹き方の確認と入院生活のストレス解消をしてくれる話し相手、それも聞き役でした。病院食で出た甘塩の紅鮭と鱈の粕漬の魚が食べられた。美味しかった。うれしかった。とピークフロー日誌に書きました。
入院前のピークフロー日誌の“この一週間で気付いたこと”の欄には400を切れば空気の薄さを感じる。朝は息苦しさで目が覚める等面々と書き記してきました。先生への書面上の会話でもありました。
「ピークフロー値400もあれば健康者と同じだよ」とおっしゃる専門医。
「食べ物の臭いで発作が起きることってあるの?」とおっしゃる専門医。
「喘鳴の無い喘息なんて…」と首をかしげる専門医。
「ピークフロー値が平均値を超えているのに、会話や僅な動きでセカセカ苦しくなるなんて…」と不思議がる専門医。
「喘息にしては酸素が低すぎるから、他に余病があるのでは?」と心配して下さる病棟の先生方。
核医学検査、MRIとCT検査、超音波検査、その他数種類の検査を受けさせていただきましたが、結果はすべて異常なし。他の喘息患者さんと症状は違っていても主治医の診断通り、私は喘息患者でした。諸先生方も患者は選べないと思いますが、患者も主治医の先生を選ぶ事はできません。ですから、せめて患者の叫ぶ声に耳を傾けて聞いてほしいとお願いしたいのです。
発作の症状も、喘鳴が無くとも、ピークフロー値が平均値にあったとしても、それらにはすべて個人差があることを認識してほしいとお願いしたいのです。また専門ドクターである先生方の何気ないその一言が患者の心神を破壊させてしまう事、それはステロイドの副作用の数倍にも匹敵する恐れがあることを知ってほしいとお願いしたいのです。今はいろんな場面にて“インフォームドコンセント”の言葉が使われ、重要視されています。手作りのミニブックが無かったら、今回の私の治療も快復も無かったと思います。何故なら、そのミニブックには“インフォームドコンセント”を成立させる説明が書いてあったからこそ、ステロイドの副作用の恐ろしさが乗り越えることができ、治療が受けられたのです。患者の私たちも薬の副作用を恐れているだけでなく、確かな認識を持ち、主治医の先生を信頼し、治療を受ける事が、自分の病気と共存しあえること、それが「生きて行ける」証しであることを身に持って実感した私です。
今が嘘の様な気がしています。「気管支喘息」という慢性疾患を持つ私には今後も完治は望めませんが、「生きて行ける」と知った今、やりたいことがいくつかあります。それは、
・近くの公園で孫と一緒に遊ぶことです。
・家族でドライブすること、もちろん自分の手でハンドルを握り、車好きな孫におばあちゃんも運転できるんだよ、とちょっぴり自慢がしたいのです。
・今年の秋の公演で初舞台も踏む息子の姿を見に行くことです。
最後に総廻診の時、耳もとでそっと「元気が無いので心配しているのよ」と言って下さった婦長さんのやさしいお声が忘れられません。
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喘息の発作の苦しみは、体験した者にしかわからないといいますが、その苦しみを医師にわかってもらえず適切な処置を受けられないほど辛いことはないのではないのでしょうか? しかも、この数々の訴えは恐らく良くなった今だからこそ書けることばかりではないでしょうか? 苦しい最中にこれらの事を訴えたところで、救急外来で味わったのと同じ結果であったでしょう。
良くなった今だから、“ほら、やっぱりこんなに良くなったじゃないですか? やはり喘息だったじゃないですか?”と私を含めてこれまで携わった医師に訴えることができるのだと思います。書いてある内容が過激すぎると思ったのか、彼女はこの手記を私に手渡す時、くれぐれも「まずいところは削って下さい」と、念を押しました。確かに、これを過去の主治医の先生方が読めば気まずい思いをするかもしれません。しかし、私は敢えてすべて修正せず掲載することにしました。彼女の言うところの“ミニブック”を作成するに至るまでは、私も同じような考え方で彼女に接した時期がなかったとは言えず、自分自身に対して深い反省の念を込めたいと考えたからです。
彼女を担当するようになってほぼ5、6年が経ちますが、彼女は私の診ている患者さんの中で難治性の3本の指にはいる患者さんのうちの一人でした。彼女の場合、何よりも悲惨であったであろう事は、これまで重積発作や大発作などの経験がなく、一般的な分類からすれば中等症から軽症の部類と考えられていたことであるかもしれまん。よく喘息発作がひどくなると喘鳴さえ聞こえなくなると言われますが、彼女の場合はこれと少し違うようでした。実は私自身も、発作時には一度もラ音を聞いた覚えはないのですが、気管支拡張剤やステロイドを投与するとピークフロー値は改善し症状がとれるので、やはり喘息としか考えられないのでした。この手紙から、最初はゼイゼイ、ヒューヒューが聞かれたのに、いつしか聞かれなくなったと書かれており、その経緯が初めてわかりました。恐らく色々な“中途半端な治療”がこの方の喘息の病態をマスクしてしまったのでしょう。非常に貴重な報告だと思います。発作で喘鳴が聞かれないとすれば恐らくそれは、気管支痙攣ではなく気道炎症が高度になっている証しなのかもしれません。こんな時は、ネオフィリンなどの気管支拡張剤よりも速効性のステロイドが効果があるようです。
彼女の場合、色々な誘因で喘息が悪化したようです。気道炎症があり過敏な状態では、どんな刺激も増悪因子となりえます。運動、寒冷、臭い、精神的なものすべてです。以前は、精神的なストレスで発作が誘発されたことから、喘息は精神病の一種だと思われていた頃があります。子供の場合は母親が過保護になりすぎることが原因と考えられ、小児喘息は“母原病”などといかにもかっこいい名前をつけられたことがあるのです。実際にまだこのような考え方の医師が存在していることも事実なのです。しかし、これらはすべて発作の増悪因子であって喘息の本態ではないのだと強調しておきます。つまり、喘息の状態が良くないから、ひょんなことで発作が引き起こされるのです。良くなれば、同じ誘因が加わっても発作を起こさない人は何人もいるのです(→(03)の患者さん参照)。
私は、何度も彼女に入院を勧めてきたのですが、入院したくない大きな理由は、入院するとそのフロアのエレベーターホールは喫煙所になっていて、たえずたばこの煙が蔓延し、例え誰も吸っていなくても、こびりついた臭いがたまらず息苦しくなってしまうからでした。階段を使えばいいじゃないかと思う人がいるかもしれません。しかし、苦しくて入院しているのに何故階段を使って検査や他科受診に行くことなどできるでしょうか? むろん、他にエレベーターはないし、例えマスクをしたところで完全に遮断されるものではありません。彼女の訴えを聞いて私は婦長さんにお願いし、そのフロアのエレエベーターホールを禁煙にしてもらいましたが、今だにこの大きな病院がそのフロアだけしか禁煙になっていないのにはがっかりさせられます。
以前、余りにもステロイドの点滴に依存しているので、ある入院主治医が、ステロイドを抜いて外見でわからない様に点滴をしたところ、それでも少しばかりピークフロー値が上昇した事があり、それが原因で彼女の病状には精神的要因が大きく作用しているとレッテルを張られてしまった事がありました。喘息の状態が良くなければ、逆に精神的なもので良くなることもあり得るのです。その頃家族の間の人間関係がうまく行っておらずそれも良くならない原因と思われていたのでした。しかし、強調したいことは、本当はベストが600位吹けるはずの人が、コントロール不良で350前後の値しか吹けない状態にあれば、精神的ストレスで300に低下することもあるし、実際は中味がないのにステロイドを点滴したと思い込んだだけで400位に上昇する事は十分あり得ることなのです。しかし600という値から見れば、300も400も大差ないと私は思います。如何に350前後から脱却して倍増に近い600に近づけるかこそ喘息治療の本質であると私は思います。600前後に近づけば、多少の精神的な要因でピークフロー値は下がったとしても、絶対に急激な発作などは起きるはずはないと思います。
点滴を外来で続けることを“罪悪”と思わせてしまったのは、私の責任でした。私は何度も内服のメドロールというステロイドを服用するように言ってきたのですが、以前別のプレドニンというステロイドを内服した時に激しい胃痛が起こり、それ以来絶対に経口ステロイドを受け付けてくれなかったのです。しかし、私は「あれほど点滴でステロイドを身体の中に入れているのに、それで胃が痛くならないのだから絶対内服はできるはずだ」と言い続けてきました。それでも、点滴にこだわる彼女に私も苛立ちを覚えたことは確かです。
2週間分の外来点滴伝票をまとめて切る時の私の顔は恐らく不機嫌そのものだったでしょう。また、いつも私の診察に入ってくる時、大きくため息をついて切なそうに入ってくる彼女を見て、その苦しさなど考えもせず、内心、
「また点滴がして欲しくてそのように振る舞っているのだな」
と考えたこともありました。また、診察を終わる頃、私が点滴を指示する青い伝票に手が届かないので、点滴をして欲しそうに哀願する彼女の表情を横に、ため息をつきながら仕方なく伝票に何度“ステロイド点滴”と指示を書いたことでしょう。
これも、この度ピークフロー値が500を大きく超えた時、さっそうと私の診察室に入ってきた彼女を見て、今までの私の考えが誤りであったことに初めて気がつきました。私自身が最も不勉強の呼吸器専門ドクターでした。今となっては、これらの不徳を心よりお詫び申しあげるとともに、よくこんな私を信じて6年間も通い続けてくれたものだと感謝しております。やはり医師は患者さんの訴えに耳をかさなくてはいけないとあらためて胆に命じました。
彼女が寄稿の最後に“いくつかのやりたいこと”を挙げていましたが、是非皆さんに報告しなければなりません。まず退院してまもなく、お孫さんと公園で元気に遊ぶことができたそうです。その時お孫さんの方が“大丈夫?”というふうに心配そうな顔をしていたのがとても印象的だったということでした。また、ドライブに関しては何と2年ぶりに自分一人でハンドルを握り、2時間ぐらいかけて隣の市にあるかかりつけの眼科に通院したそうです。(健康な人でも2年ぶりにハンドルを握るのは不安なものですが、よほど車が好きなようです。)秋のお子さんの初舞台はもう少し先ですが、番外編としてゴールデンウィークには4泊5日で弘前の桜を見てきたそうです。うらやましい限りです。
彼女の言うミニブックは、この寄稿集を読んでいる私の患者さんには、すべて配布したと思いますが、まだ読んでない方は是非一読して頂きたいと思います(→付録・感想:(3)気管支喘息患者さんへ)。あのミニブックを読んだ患者さんは皆私に、
「先生、あれは私の事を書いたのでしょう?」
とよく言われました。特定の患者さんを意識して作った訳ではありませんが、恐らく皆さんに当てはまったのでしょう。なかでも、
「考えて見て下さい。その黄色信号状態を続けることは、どれだけ家族や医療従事者に迷惑をかけることでしょう」
の一節が皆さんにはかなり効いたようでした。なかには、あれを読んだ家族の方がむしろ積極的になって、入院を勧めてくれた患者さんがいたのは成果の一つだと思いました。
あのミニブックを作製した私自身には“インフォームドコンセント”の意識がまったくなかったのですが、彼女から、そのインフォームドコンセントを成立させる内容が書かれていると指摘されて、なるほどと思いました。確かに、ステロイドはその弊害ばかりが取り沙汰されて、その良さは余り触れられていないことが多いようです。マスコミの影響もあるのだとは思いますが、ステロイドの主作用と副作用の情報をしっかり得た後、自分がどうなりたいのか、そのためにはどれを選択するのが最も良いのか、それを患者さん自身が決める―これこそ今後の医療のあるべき姿なのだと思いました。
最後に、患者さんが本当に苦しい時、医師ほどあてにならない存在はないのだと思いました。逆にそういうどうにもならないような時、私のような他人の気持ちがわからない医者がささやくさりげない一言や心ない態度、それはたとえ良くなった後でも患者さんの“心の傷”として一生残る。逆に、特に治療という治療を施した訳でもないのに、一番苦しい時にかけてくれた看護婦さんからの暖かい一言はずっと後まで残るのだと。あらためて看護婦さんは偉大だと思いました。
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今、何が一番うれしいか?と問われれば、思いっきり、空気が吸える。それが一番うれしいと大きな声で答える私。何の抵抗もなく、空気が咽を通り、体の中に入っていく、それを感じることができた。会話がスムーズにできる。食べ物の臭いが緩和され美味しく食べられる様になったこと。家の内では軽やか…とはいいがたいが、それなりに動ける様になり、自分の身の廻りの事ができる様になった。それ等ができることが生きられる確かな証しである今が最高にうれしい。全てが別世界の様に思えてならない。
ピークフロー値の低下と共に常時呼吸困難があり、臭い、冷寒、動き、会話などに誘発し、入退院を繰り返す年月。
「私の吸う空気が無いのか?」
と悩み、苦しむ。そんな恐怖の中での生活が続いていた。泣くこと、絶望感、家族に迷惑を掛けてしか生きていけないのなら、
「死んだほうがいい」
と思い込む。だが再度発作が起きればその苦しさに死が恐くて病院に駆け込む。たんなる大義名分を翳して強がりを言っているにすぎない自分に病院の内科処置室には点滴を受けるための指定席ができるまでになっていました。そんな過去があったことも今は嘘のように思えています。
「皆、見て、見て」
と大声で叫びながら、ふれまわって歩きたい自分を抑えきれず、身内を初め、友人、知人にコールし、尋ね歩く。今の私の姿を見てほしくって。
「信じられない」
と誰もが一応の驚きを見せてくれた。だが一番に信じられないのが本人の私と家族なのです。
目標ピークフロー値を達成、維持しての退院でしたが、先生の診断通り、家に帰ればピークフロー値はからなず下がるから、その時は再度内服薬のメドロールによる全身ステロイドと吸入ステロイドのベコタイドインヘラーとの平行治療を行いますと説明がありました。この治療を受けるについて、
「退院の時かねてお話ししました通り、本日よりステロイドを2週間の予定で増量を開始致します。本来ならば入院すべきところですが、諸事情により自宅安静としました。従いまして本日より○○さんには病人として、自宅にいない者として扱って頂きたくお願い申し上げます」
と主治医の先生が家族に当てて書簡を届けて下さったのです。この書簡を戴いた事で家族は驚きを見せていました。そして120パーセントの協力を得ることができ、治療に専念することができたのです。
長い期間、パジャマ姿での生活にピリオドを打つことができた。私服姿を見た孫は、
「ハア…ハア…(呼吸困難の状態を表現する言葉)になるから、パジャマ着て、ネンネしろ」
と私の部屋へ引っぱって行くのです。私には、この12月で3才になる男の子と、1才5ヵ月になった女の子と2人の孫がいます。病院に出る以外はパジャマ姿でゴロゴロしていましたので、もの心ついた孫の目にはそんな姿の私しか写っていなかったのでしょう。
その数日後、春の日差しが暖かい昼近い頃でした。
「お外に出られる? ハアーハアーない? 公園に行ける? 先生、公園に行っていいよって言ってた?」
体調が良ければ話し相手になってやる事が私が孫にしてやれる唯一のことでしたので、そんな会話の中に、
「○○ちゃん(おばあちゃんとは呼ばず名前を呼んでくれています)のハアーハアーの先生のお名前誰?どんな先生?」
と日に何度も聞くようになり、その度、
「パパのように背が高くて、お顔におひげがあって、すわべ先生って言うお名前のお医者様なんだよ」
と語っていました。
玄関の階段を降りるその時、孫の手に力を感じながら手をつなぎ歩いた。公園への道、公園で一緒に遊ぶことが不思議そうに何度か立ち止まり見つめ笑う孫。いつの日からか、知らず知らずにこんな幼い子にまで心配させていたことを目のあたりに感じた時、見上げる孫の顔に涙が落ちた。
「泣くなあー」
の言葉に涙が止まらず、抱き締めた。
寄稿集の中でどなたかが書いておられましたが、
「苦しんでいるのは貴方だけではありません。あなたをとりまく全ての人間(主治医、家族)があなた以上に苦しんでいるということを忘れないで下さい」
まさにその通りでした。気管支喘息と診断され、咳、痰、喘鳴、呼吸困難、昼夜を問わず頻繁に起きる発作に救急外来に駆け込み、酸素を吸わされ、即入院となった深夜、職場に持ち運びができる様にとポータブルのネブライザーを買い求め、1日4回のビソルボンを吸入する。気管支拡張剤を主に抗アレルギー薬、予防薬、治検薬と数えきれないほどの投薬治療を試みましたが、入退院を繰り返すのみでした。専門医にさえ理解してもらえないほど、臭いに対する極端な過敏状態に呼吸困難が起き、食事がとれない、体に力が加わると発作を誘発させる、動けず自分の身の廻りのことすらできず、臥床する日々。苦しさと惨めさ、死がよぎる、そんな自分との戦い。家族の苛立ちを目のあたりにしながら連日のステロイド点滴、副作用の激しい胃痛を頑なに隠し続けてきたのも内服薬のステロイドを受け入れたくなかったからでした。
「ステロイド薬は一度飲み始めたら止められない。しかも副作用が強く、骨がボロボロになる恐い薬」
と聞きかじりの情報を得ていたためこわかったのです。結果的には内服薬メドロールによるステロイド治療を頑固として拒み続けたことが主治医の先生をも苛立たせ、治療を妨げて来たことが難治性に至った経過であり、総ては自分が招いた苦しみであり、その苦しみに家族をはじめ幼い孫、義妹、友人、主治医の先生までも巻き込んでしまったことでした。
2回目の治療を終えた時でした。
「心身なるセラピスト、先生に感謝するのみ」
と息子の言葉を背で聞いた。家族の中で一番辛い思いをしていたのが彼だったのです。
「人生に目的を持った治療を!」
の先生の言葉に励まされ、青森県弘前公園の桜を見に出かけました。吸える空気が無いのか? と僻みつつ生きていた女にとって、それは手の届かない夢、夢は夢で虚しく終わるものとあきらめていたのですが、夢の実現に向かって出発したのです。
広い城跡を囲むお堀、霞む朝の水辺に咲き初めのうす紅色の桜の花びら、まだ堅い蕾、重なりあう枝が墨絵の様に写る。砂利道、坂道、お堀を渡る赤い欄干の太鼓橋。カメラのシヤッターを押し歩く後ろ姿に驚き、顔を見合わせ唾づを飲んだと妹夫婦は語る。雲の間に見え隠れする残雪の岩木山。やがて巨樹の桜が風に唸る。古城跡に頬ずりするかのようにやさしく寄り添う垂桜。目に眩しい朝の太陽背にうけて舞う桜にしばし我を忘れた。
呼吸が楽になったとは言え、退院して日はまだあさく、体力が伴わない私を誘ったことで悩み、胃痛に苦しみ、後悔の念にかられていたと走る車の中で笑い話となったが、
「マジだった」
と薄くなった頭をなでながら苦笑した。
弘前公園の桜を返り見ながら、鯵ヶ沢、深浦、椿へ。千枚畳敷海岸に立つ。怒涛に押し寄せ来る日本海の潮の香り。だが春はまだ冷たい。証拠となる写真は赤い防寒着に白いマスク、サングラスをかけたジーパン姿、本人である証はどこにも見えない。発作が起きない様にと人ごみと臭いを避けるため、新しいコテージ・バンガローを宿に選んでくれた4泊5日の旅。青森市内、三沢、八戸、釜石、宮古、ちょっと寄り道の浄土ヶ浜、気仙沼、国道45号線を南下し帰路に着くが、その確かさを伝えたくて、旅の途中で先生にメールを書いた。
長男が大学に入った最初の夏休み、全国ロードマップ1冊を持ち、その春に取得したばかりのペーパードライバーの長男とナビゲーター役の高校生の次男との3人で思い立ったが吉日とハンドルを握り深夜からのドライブ旅行に出た。分岐点に立った時、北か南か、右か左かと、意のままに車を走らせ、むつ湾を北上し、国道とは名ばかりの悪路の山道土煙を舞い上げ、ただひたすらに走り続けた下北半島、仏ヶ浦。白いスカイラインは土まみれの無残な姿。カメラを持たずに出たために証拠写真1枚なし。イチゴのかき氷を削ってくれた茶店のおばちゃんが語ってくれればただ1人の証人である。宿も走り続けて日が暮れたその街で1泊の安らぎ、絶景の三陸海岸を横目に見、ヘアピンカーブの続く国道45号線に、あの山道の悪路の国道にスリルを感じた。
翌日から1週間、疲れが出、床に伏す。ピークフロー値は500を切ったが心配していた発作は一度も起こらず、県境を超える山間地で拡張剤を1、2回吸入しただけのまさに夢のドライブ旅行ができたのです。
「ご自分の性格は?」
と聞かれればズボラと神経質の二面性、頑固で意地っ張りと、入院のたびに書き残すこと6回、信じきり新たな命をもらい、夢を実現できる希望をも戴いた。この9年間、気管支拡張剤、テオロングを飲み続けて来ました。以前は指に力が入らず、その袋を破く時、何度かこぼしてしまう事がありました。そんな時、
「この薬がないと私は死ぬ」
命の薬とわめき、指をなめながら必死になって拾い集めていたのです。それがつい先日の夜のこと、手をすべらし顆粒のテオロングの袋を落とし、見事に散撒いてしまったのです。残ったのはほんの僅か。
「まあいいか、1回位飲まなくたって死ぬこともないだろう」
拾い集めるのがめんどうだったのです。すると家族の全員が笑い出したのです。
「君も変わったなあ…。その薬を零すと命、命と言って指を嘗めながら必死になって拾い集めていたのに、今夜はまあ…いいか? だって」
我が家に笑い声がひびきわたった幸福な一夜でした。何年ぶりかと指を折ってみた。
私たち喘息患者にとってより健常者に近い生活を過ごせるか? が最大のテーマです。ピークフローを測定し記録する。主治医の先生の指示に基づき吸入ステロイドを吸うことを1日の生活サイクルとして身に付くまでは少々苦痛は伴いますが、それができてしまえば、
「自己管理ができる」
ということです。自己管理ができるという事は健常者と共に生活が過ごせる最高の条件だと思います。故にステロイド薬、ベコタイド、メドロールは私にとって絶対必要な薬なのです。点滴のステロイドに依存し、精神的要因が大きく作用していると、入院カルテにレッテルを張られたほどの私ですが、副作用で最も恐いと言われている骨粗鬆病の検査を受けさせて頂きました。結果は異常なしでした。今後もステロイドを必要とするなら随時検査を受けた方が良いでしょうと整形外科の先生のアドバイスがありました。肝機能、腎機能においても異常なし。
治療の選択は患者本人にあると思います。ステロイドの副作用を恐れるが為に経口せず、呼吸困難と発作を繰り返し、苦しみと恐怖の人生を過ごして行くのか、またはそれ等の副作用を認識し、理解し、定期的に検査を受け、おいしい空気を体いっぱい吸える喜びを感じ、家族と共に泣き笑いの人生を過ごすのか? 私は主治医とのインフォームド・コンセントを成立させ、後方のステロイド治療を選び、現在にいたっています。ステロイドの副作用が層をなし、仮に短い人生で終えるとしても、家族と共に喜び、悲しみ、孫の成長を見続ける人生を躊躇することなく選びました。信じられる主治医、愛する家族がある限り、ステロイドの副作用は恐くはありません。私にとって生き続けるためには内服、吸入の両ステロイド薬は絶対必要と断言しなければなりません。また先頃、マスコミによって気管支拡張剤による死亡数について騒がれていましたが、その薬も私には必要な薬なのです。薬のみならず、時を移せば、
「百害あって一利なし」
と公言されていた時期があった様ですが、病む者にとってはその一利に縋らざるを得ないことも事実なのです。ですから死亡者の数だけをピックアップし、メディアを利用し、認可の取消を叫んでほしくないのです。貴方達は病む人ではなく、健常者なのです。健常者である貴方達に一呼吸の空気のありがたさがわかりますか? と病み続けて来た女として問いかけたいのです。
人生に山崖あり。
この8月6日に実父を亡くしました。大腸ガン、肺ガン、腎不全による3ヵ月と少しの入院生活の末でした。付き添い看護とは名ばかりの3週間、弟妹をはじめ病床に伏す父さえも私の身を気遣ってくれた。姪や甥達の助けをかり、延命装置を付ける事も無く、静かに見送ることができましたが、総合病院でありながらもこれほどの病気を持つ父や家族に全くインフォームド・コンセントがなされなかったことに悔やみました。父の病気に肺ガンもあったため、主治医の先生には大変ご心配を戴きお世話になりましたこと、感謝申し上げます。父の死を悲しむ間もなく、その月末には主人の会社が倒産となり、やむなくして家を出、一時期ではありますが逃避行の身となりました。今後においては最愛の孫達とも別居せざるをえず、心身が病み、悲痛な思いに伏しています。ピークフロー値も下がり時折吸入拡張剤ベロテックを使い、先生の指示のもとで1日2回のピークフロー測定、記録、吸入ステロイド、経口ステロイドの自己管理を行っています。現在は喘息発作には至っていません。以前、喘息の状態が良ければ精神的な面に多少マイナスが生じても発作は起こらないと諭されて居たことが大きな教訓となり、今の私を支えてくれているのだと思います。
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