「この病院ではこのままでは死んでしまうようだ」と夫。
<1>これまで喘息で苦しかったこと。
(1)季節の変り目。春(若芽のふく頃)、夏(真夏日)、秋(栗の花の咲く頃)、冬も発作はあったが割合に発作が楽だった様な気がする。
(2)気温の変化、室内の温度が低くなる夜中2時決まって発作が起き、病院に駆け着けた。それは数え切れない程。何時も寝る時は頭を枕につけ膝を立て休む状態。
(3)真夏日、余りの暑さに度々小発作、喘鳴。その時はシャワーを浴びると大分落ち着いた様な気がした。
(4)窓から入る風には神経をつかい、窓を開けたり、閉めたりして、精神病ではないか、乍と云われたこともある。冷たい風、強い風の時はなるべく吸わない様に気を付けた。(一寸でぜいぜいと苦しくなるから)
(5)クーラーの効いた所に入るなり、呼吸が苦しくなり、トイレに入ってメプチンを吸った時もある。又、バスに乗った時なども窓から入る冷たい風でゼイゼイと苦しくなって、メプチンを吸って治めたことが何度となくある。
<2>発作がない時でも不自由したこと。
(1)室内の集まりの時など、男の方の煙草の煙に困った。
(2)早朝の公園清掃(朝6時と云うと空気が冷たいのでちょっとこたえる。)
(3)ハイヤー、バスなどに乗った時クーラーの効き過ぎ。
(4)重い荷物を持つとちょっと呼吸が苦しくなるので、なるべく重い物は持たない。
<3>ステロイド治療で良くなって初めてわかったこと。
(1)体力がついた。
(2)風邪に強くなった。(前は風呂から上がっただけで風邪を引いた)
(3)発作が全然起きなくなった。
(4)ベコタイドは使用しているが、メプチンは使用していない。1昨年から点滴はしていない。
(5)長年仰向けに寝たことがなかったが、今はきちんと仰向けに寝た方が楽になった。
(6)真夜中でもマスクをはずすことがなかったが、今では一切マスクを使用したことがない。
<4>まだ喘息で苦しんでいる患者さんに伝えたいこと。
(1)主治医の指示には絶対に従う。3度の薬はきちんと飲む。
(2)発作が起きそうになったら早目にメプチンを使用する。余り酷くなってから使用しても落ち着かない。
(3)ベコタイドは必ず指示通りに吸入する。初めは咽喉の痛さで吸ったり吸わなかったりしたが、補助器(スペーサー)を先生からお聞きして使用したら全然何の抵抗もなく、毎日きちんと指示通りに吸入ができ、だんだんと喘息が落ち着いてきた様な気がした。気道が修復したのかな、と思う。何時も外来の待合室で御一緒する方にお聞きすると、ベコタイドはいただいても全然使用していないという方がお二人居りましたので、余計なことでしたが、ベコタイドは絶対に必要で大事だということを知らせた。私は先生の指示に従わない不真面目な人間でしたが、今こうして普通の生活が出来る様になって初めて先生の指示に従うべきだと云うことが痛切に感じました。
(4)何時も穏やかな気持ちでいる。(余り無理をしない。体は時々休める)
(5)夜寝る前にどんな寒い時でも窓を開けて1日の汚れた空気を外に出す。
(6)慰めかと思うが、空気清浄器を使用している。(気分的に良い)
(7)部屋の掃除の時は必ず窓を開け、掃除が終わってもしばらく窓を開けておく。
(8)寝具類はいつも清潔にする様心掛ける。
(9)余計な神経を使わない。(精神安定)
(10)喘息という病に臆病にならず、絶対に治すという気概が必要だと思う。信頼できる先生に出会えたら、先生を信じて、遠慮なく何でも相談にのって頂く。今まで病院の先生に私から話を聞いて頂く等ということはとても出来ませんでしたが、先生は何でも熱心に親身になって聞いて下さるので、つい喋りすぎることもあります。やはり先生との会話も喘息の治療にも少しは役立つのではないでしょうか。もっと早く先生に出会えたらこんなに長く苦しまないで済んだのにと思います。多忙の中を私たち喘息患者のために寄稿集を刊行して頂いたことに心から感謝申し上げます。色々な事を学ばせて頂きました。ピークフローメーターがどんなに大切かということを初めて知りました。
<5>私の喘息管理法
(1)何事も無理をしない。疲れた時は体を横にして休む。
(2)余計な神経を使わない。
(3)風邪に注意する。
(4)早寝(夜10時には必ず床に着く)、早起き(夏5時半、冬7時)必ず守っている。
(5)夜休む前に必ず実行することは軽い運動と腹式呼吸。どんなに眠くても実行する。
(6)夜の食事は満腹にならない様に少食。余り満腹になると呼吸が苦しくなる。
(7)風邪予防のため、ビタミンCを長年服用している。
(8)隣組の集まりとかは免除してもらっている。(大抵夜の集まり、また煙草に煙がこたえるから)
<6>ステロイドの副作用
手の皮膚が薄くなったような気がします。(ちょっとぶつけてもピッと切れる)
余り上手に表現出来ませんが、自分が思っていること、自分が実行していることを書かせて頂きました。読んで頂ければ幸です。先生にお会いする以前に受けたの喘息の苦しみ、悩みなどは、思い出すだけで悲しくなります。克明に書いてみましたが、書ききれませんので、次の診察日にでもお持ちしたいと思います。
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発症したのは今から24年前の48才の時です。台所に立って後片付けをしておりましたら、急に胸が痛くなり、呼吸困難になりました。直ぐに病院に行けば良かったのですが、一晩我慢して次の日早々に病院に行き診察を受けました。
診察の結果、その時喘息とは言われませんでした。注射をして頂き、家に帰りましたが、一向に苦しさは治まりませんでした。一晩一睡もせず、また病院に参りまして注射をして頂き、その時喘息と知らされました。入院した方が良いと言われ、即入院をしました。ベッドに横になることも出来ませんでした。正座して枕に頭をつけ苦しさを我慢しておりました。看護婦さんが注射と薬をもって来てくれて、
「直ぐ飲むように」
と言われましたが、とても苦しくて水さえ飲むことが出来ませんでした。注射も一時的で、ちょっとの間だけの効果でした。薬も余り効かなかったようでした。食事も全然取ることも出来ず、1週間位何も口にすることが出来ないので、点滴だけの栄養でした。食べ物を取らないと点滴だけでは体が衰弱すると言われましても、とても水さえ口にすることは容易でありませんでした。その頃は勿論ステロイドの吸入などはありません。副腎皮質ホルモン(ステロイド剤)はありましたが、主治医の先生は一切出してくれませんでした。
1週間過ぎた頃に先生が、
「喘息に良い注射が出たよ」
と言って持って来てくださいました。その時は涙が出る程嬉しかったのを思い出します。早速注射をして頂き、暫くして苦しさが少し落ち着いた様な気がしました。相変わらず夜中の2時決まって発作、余り注射は出来ないと云われましたが、、懇願して注射をして頂きました。食事は依然として取ることは出来ませんでした。ところが、同僚の奥さんが栗ごはんと鯉の甘煮にを持って来てくださったので、
「頑張って食べるように」
と言われたので、鯉は私は大嫌いでしたが、少しずつ食べている間に栗ごはんと鯉を全部食べてしまったのです。それから少しずつ体力が着いたような気がしました。
3週間入院して家に帰りましたが、相変わらず発作は治まりませんでした。毎日通院して注射をして頂き、その時はどうにか良いのですが、喘鳴は相変わらず取れませんでした。夜中2時頃発作が起こると、その頃自家用車乍はありませんでしたので、ハイヤーが来るまでの時間死んでしまうのかと思った事は何度もありました。病院に着いても先生は直ぐには診てくれません。“喘息は死なないから”というのです。我慢してから病院に行くので、なかなか注射をしても治まりません。
そしてまたまた入院。普段は咳が出ないのに入院したと同時にすごい咳が出て、痰も出てくるので体が疲れてきたような気がしました。咳がすごいので、隣のベッドのおばあちゃんがうるさいと早々に退院して行ったこともありました。食べ物は大分取れるようになったので、3週間で退院。また通院しましたが、主治医の先生はステロイドは絶対に出してくれませんが、院長先生は必ず出して下さるので、“今日は院長先生だといい”と祈るような気持ちでした。
3回目の入院の時は相変わらず発作で大変でしたが、食べ物は自分の食べたいものは何でも口にすることが出来ましたので、1回目、2回目の時よりは大分良かったですが、隣のベッドの奥さんが鼻歌を口ずさんでいたのに浣腸をして頂いた直後にショック死してしまい、私は驚いて急いで家に逃げ帰りました。ところが大発作。主人も勤めですので、1人で我慢しておりましたが、頭が朦朧として何が何だかわからなくなり、とっさに“救急車を呼ぼうとして”電話につないでいた腰紐に手をかけた時に主人が帰ってきたのです。あの時は主人が帰ってこなかったら私はどうなっていたか、この世にいなかったかもしれません。主人から、
「(治そうと思って入院して)頑張っているのに(勝手に家に帰ってくるなんて)馬鹿なことをするんだったら、今後いっさい何事があっても構わない」
と言われ、また病院に連れ戻されました。
2週間位入院して退院しましたが、主人は、
「この病院ではこのままでは死んでしまうようだ」
と言って、他の病院に転院することにしました。次の病院では割合に大発作というのはなかったような気がします。でも夜中に何度病院へ走ったかわかりません。喘鳴が隣の部屋まで聞こえるくらいの発作でも、依然として“死なないから”と直ぐには診察してくれません。次の病院には2度入院しました。やはり気分的なものもあると思いますが、この病院が自分にはあったような気がしました。昭和51年、52年頃にもステロイドの吸入はなかったのですが、薬は大分喘息には効くような気がしました。
主人が県内の他の地域に転勤になりましたので、何となく不安でしたが、
「ここにもいい先生がいるよ」
と言ってくれました。転勤してからは入院は1度もしておりません。近所にいい先生がおられましたので、大変お世話になりました。夜中は我慢ができないような発作はありませんでしたが、日中はやはりゼーゼーは取れませんでした。風邪を引いたり我慢をしたりすると決まって発作。“何でこんなに何時までも喘息で苦しまなければならないのか”と生きているのもいやになった時もありました。
主人の退職と同時に山形市に引っ越しました。家を建築するにも色々と配慮してもらい、喘息には悪い建材は一切使わず、ストーブは全部クリーンヒーターと、色々心配してくれましたが、やはり喘息は治りませんでした。今考えてみますと、自分の身体のことは二の次、唯々主人のことばかりで、ゆっくり休まる時がありませんでした。主人も入院が9回もあり体が弱く、どうしても自分が具合悪くて起きることができない時は2日位主人の世話になりましたが、その他はどんなに大変でも主人に迷惑をかけないようにと頑張りました。
色々なことが思い出されます。息子から、
「何か心配なことはないのか?」
と聞かれましたが、
「何もない」
と言い続けました。やはり一家の主婦が毎日苦しい状態でいるのを見れば、可愛相だとは思うでしょうが、寂しい思いもしたと思います。優しい主人でしたが、私が男のような気性で、余り主人に頼るとか甘えるということはありませんでした。子供から見ると、
「おふくろは余りに頑張り過ぎる」
と言いますが、主人が何事においても“母さん、母さん”と私にばかり頼るような、気持ちが小さいというのでしょうか、そういう主人でしたので、色々な出来事にも結局私が男のように頑張ってきたのです。
山形市に引っ越す前は余り良い思い出はありません。喘息で苦しみ、色々なことがありましたが、主人を憎んだり恨んだりしたことは一度もありませんでした。誰でも好きで病気になる人はありませんが、喘息という大変な病になったことで、色々なことに出会い経験も致しました。今こうして発作もなく、のんびりとゆったりとした気持ちで過ごせるとは夢にも思いませんでした。今振り返ってみますと余りに頑張り過ぎたかなと思います。
喘息という病気は本人でなければあの苦しみは分からないと思います。“何でもっと自分の身体を大切にしなかったのか”と悔やまれます。今自分がこうして喘息の発作もなく普通の生活が出来るようになったのも、先生のような患者に対していつも温かみのある熱心な先生にお会いできたからだと思い感謝しております。患者にとっては何よりも周りにいる家族の喘息に対しての認識と愛情が大切だと思います。私の友人は異口同音に、
「今まで旅行するでなし、何も楽しみもしないで唯々旦那さんのことだけで過ごしてきたのだもの、これからゆっくりと楽しく過ごしたら?」
と言ってくれます。これからは自分の身体に気をつけ、正しい生活をしてゆっくりと過ごしたいと思います。
この先何年元気で生きられるかわかりませんが、先生のお世話になりながら頑張っていきたいと思います。先生よろしくお願い致します。喘息に関係のないことまで書きましたが、以前の時の苦しみを思い返して書きました。
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この方とは、日本で吸入ステロイドが普及し始める10年位前からのおつきあいがあります。でも、このような長期間に及ぶ苦しい喘息との闘いがあったことは、私もこの寄稿を読んで初めて知りました。
最初に私の病院を受診したのはご主人も同じ病院に通院することがきっかけであったと記憶しています。そして、ご主人は結局この病院でお亡くなりになりましたが、看病で忙しい当時は受診も不規則で喘息の調子も思わしくなかったようでした。
その後、ご主人が亡くなられてからは、看護という過労から解放されたせいもあって調子が悪くなかったためか、しばらく私を受診していなかったのですが、「主人の亡くなった病院には何となくまた来たくなかった」と言うのもその理由のひとつのようでした。私の頭にはご主人のお顔が浮かびませんが、ご主人との間には数え切れないほど、喘息にまつわる出来事があったこともよく分かりました。
ご主人第一、家族が第二、自分は最後、という我慢強い性格がよく分かりました。我慢強いのは美徳と教えられ育ったご年代でしょうから仕方ないことであるとは思いますが、喘息にとって我慢強さは大敵であることがよくうかがえます。喘息が性格的なものに左右されるとすれば、このようなことかもしれませんね。最初から、おおらかであったら喘息を発症してもそう悪くはならないかもしれません。
「喘息では死なないから」−これは喘息死が問題になる以前の会話であると思いますが、まったくの考え違いであることは、このホームページの読者の皆さんならもうおわかりかと思います。しかし、このような誤った常識が、まだまだ日本ではまかり通っていうような気がします。
この寄稿集の小冊子は、私の診ている喘息患者さんには全員に配布いたしましたが、この方は中でもとりわけ反応が強く、他の皆さんのこれまでの悲惨な出来事を我が身以上のことのように感じておられました。外来診察室で、涙ながらに「ありがとうございました」と言われたのを今でも忘れません。それだけ、深い悲しみの日々であったのですね。
今後は、ご主人の分も楽しい人生をお過ごし下さい。
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