◆体験談002:36歳女性・主婦(平成11年7月19日)
<その1>
1.発症と再発のきっかけ
8歳のときに再発したのは二人目の弟(以後弟2)の誕生がきっかけでした。母の出産入院中は、当初、父が仕事を休んで私と一人目の弟(弟1)の面倒を見る約束だったのに、土壇場になって父が一方的に約束を破り、私と弟1は急に叔母に預けられることになりました。父に連れられて叔母のところへ向かう途中、体調が悪いわけでもないのに駅のホームで吐いたことを覚えています。そのとき、いったい何のために叔母のところに向かっているのか、父は私にまったく説明せず、非常に不安だったのです。
その後2週間ほど叔母宅で過ごすうちに喘息が再発しました。このときは弟1も軽く発症しました。当時叔母は犬を2匹飼っていて、アレルゲンは犬の毛とカビという反応でした。
最近になって思いついたのですが、最初の発症も弟1の誕生の前後でした。
2.おねしょ
家に戻ってからはほとんど学校に行かれない状態が続きました。それほど重かったわけではないと思うのですが、いつも母の判断で欠席させられました。その後3年生からA病院に入院することを前提に、B大学病院に転院し、入院しました。当時付き添いが必要だったにもかかわらず、母は私を一人で入院させました。弟2がまだ1歳にもなっていなかったので、物わかりの良い私は頭では母の立場を理解していたのですが、最初の1泊くらいはしていってほしかった。それをねだれずに悶々と思い悩みました。弟2をかわいいと思う反面、憎らしい、いや、そんなことは思ってはいけない、と、入院中は葛藤が続きました。そのころからおねしょがはじまり、2年ほど続きました。
3.母原病?
3年生になってA病院に入院すると、私と同じような子がたくさんいました。まるで寮生活のような不自由さでしたが、家よりもいいという子が結構いました。実際入院中はまったく発作を起こさないのに、退院したとたんに発作を起こして再入院する子がよくいました。こうした長期療養は誰しもが漠然と隔離療法であると感じていたようです。家や家族から離すことが、発作のない生活につながると、皆経験的に知っているのです。私も入院中はほとんど健康児でした。また、ホームシックにかかることも全くありませんでした。家が恋しいとは思っていましたが、かなり抑圧していました。
隣接の養護学校では毎日鍛錬療法が行われ、なにかにつけ我慢が足りないとか、根性がないとかいわれました。本当にそういわれたとは限りませんが、常にそう感じていました。私は甘えている、だから病気になる、少なくとも皆そう思っている、と。
20歳を過ぎて一度この養護学校の前を通ったことがあるのですが、このときは不覚にも涙が止まりませんでした。入院していたときの、10年以上前の感覚が急にリアルに蘇ってきて、いかに切ない気持ちを抑圧していたかを悟りました。それは心理学を学んでいるときのことで、なぜ子どもの頃に、ここまで率直に感情表現できなかったのか、悔やまれてなりませんでした。
4.マッサージ
鍛錬療法をしているせいでかどうか、体育の先生は喘息児たちと関わりが深く、ひまをみては病棟を訪れて子どもたちの相手をしてくれていました。特に印象が深いのは、ある先生がよく背中のマッサージをしてくれたことです。無駄話をしながら、なんとなくしてくれるだけのことなのですが、とても気持ちよかったのです。私はこのときの経験で、マッサージや肌をふれあうことが、どんなに人をくつろがせ、心の健康につながるかということを知りました。退院後には家で母が毎朝乾布摩擦をしてくれることがあったのですが、それも嬉しかった。ひょっとして母はどこかでそういう指導を受けたのかもしれません。でも本当は、乾布摩擦でなくとも、抱きしめてくれればよかった。大丈夫、心配ないのよ、とそれを思うと、今でも涙が出ます、本当に。
入院中は早朝に乾布摩擦をさせられたこともありますが、自発的にするならともかく、強制的に、しかも自分で肌を擦ることにどれだけの意味があるのでしょう。
5.生きていく感覚
発症の前後、3歳くらいの頃は、母はとても過保護、過干渉でした。私は自分なりの感覚でスカートがいい、遊びに行きたい、などというわけですが、母は発作を恐れて、寒いからズボンにしなさい、家の中で遊びなさい、と、まったく自由にさせてくれませんでした。ある時私が強く反抗して、どうしてもスカートをはきたいと訴えたところ、近頃はこれが流行だからといって、ジャンパースカートのしたにズボンをはかせてくれたことがありました。その格好で遊びに出ましたが、誰もそんな格好はしていません。子供心にだまされたとおもい、ひどく傷ついたことを覚えています。
それは過保護、というより、母の感覚をいつも一方的に押しつけられているという感じでした。母が寒いと思えば、私が汗をかいていてもそれは寒いのです。それであるときからぷつっと、私は何かを諦めてしまいました。お母さんのいうことが正しいんだ、いうとおりにしていればいいんだ、と。
そして、本当のところ自分がどう感じているのか、わからない子になってしまいました。暑いのか寒いのか、好きなのか嫌いなのか、痛いのか痛くないのか、すっかりではありませんが、自分で判断できない、というか我慢しようと思えばできてしまう。無理な我慢をしてしまう、我慢の限界がわからないという感じでしょうか。
後でこのことに気付いてからは、自分の感覚をできるだけ率直につかむよう努力していますが、過剰適応の傾向は今でもひきずっています。また大人になってからは風呂上がりの水浴びを励行していますが、これを怠ると温度変化に適応できず、いまでもすぐに風邪をひいてしまいます。三つ子の魂百まで、といったところでしょうか。
ところで今うちの子は冬でもパジャマだけで寝ています。夫はなんとか毛布一枚でも被せようとしていましたが、寝ている本人がすぐによけてしまうのです。私はそのままにしておくように説明しました。風邪さえひかなければ、子どもの行動はその子にとって一番の選択であるはずだと、親は信じるべきです。親は何か問題が起きないように見守っていればいい少々のことなら、起きてから対処しても遅くないのです。親の感覚を押しつけることが、どれほど子どもの自律性や自立性を奪うか、私自身が痛感しています。
6.アレルギーについて
私のアレルゲンは変遷しています。発症時は絹とハウスダスト、8歳再発時は犬の毛とカビ、大人になってからはダニとハウスダストです。
絹については、使っていた真綿に気付いて母が全部除去したことがよかった母は自負していましたが、実はそれにより母が安心したことがよかったのではないかと私は思っています。
再発時には叔母宅に犬がいたからであると思われます。その後13歳から何度か犬を飼いましたが、それが原因で発症することはありませんでした。
大人になってからのアレルギーはごく軽く、これが原因で発症したことはまずありません。ほとんどはストレスや疲れなどから来る心身症的なものでした。
こうしたことは、アレルギーが誘発要因や、増悪要因になることはあっても、決して本質的な原因ではないことの裏付けになると思います。
目隠しして食べてもアレルゲンなら必ず発症するような、生粋のアレルギーの方は別ですが、私のような程度のアレルギーの人に、家じゅうのほこりの徹底除去を指導するのはいかがなものでしょうか。喘息児の親はいたずらに掃除に時間をさくよりも、いかに率直に子供に愛情表現をするか、いかにその必要があるか、を学ぶほうが、よほど実りがあると思います。いささか独断に走っているかとは思いますが、偽らざる実感です。こうした率直なことが言えるのも、まったくインターネットのおかげです。
その2に続く
<その2>
その後寄稿集の11歳男子・小学5年生や、小児喘息のところなど、改めて拝見しました。私が入院していたときにはもっと鍛錬が多かったし、生活の制限も多かったです。今でもこのような長期療養が行われ、私が子どもの頃と同じような認識のお医者さまがいらっしゃることに、怒りすら感じます。外出すらままならない不自由な生活、苦しい鍛錬、親元から離れる寂しさ、特に、発作を我慢しなさいというのは、もってのほかです。
以下は、覚えている範囲で、過去に私が受けた治療法です。
・アロテック、テオドール、プレドニン、インタールなどの服用
・インシュリンの静脈注(これは今見ても異端ですよね)
・減感作療法
・漢方薬 ショウセイリュウトウ ショウサイコトウ 等
・水泳、マラソン、合気道、柔道、剣道、乾布摩擦、等々鍛錬療法
・鍼、灸
・その他、酢卵だの、クロレラだの、体にいいといわれている健康食品
・C病院での治療:注射、服薬、ボスミンの吸入
インタールや減感作療法などは、アレルギー体質の改善という点では効果はあったと思います。が、ほかに誘因があればこれだけで発作は防げませんよね。
鍛錬療法は、良い経験になったといえる部分もありますが、喘息の治療としてどれだけ意味があったのか、まったく疑問です。私の頃は結構きびしくて、というか、喘息児は根性がないから、びしびししごいて鍛えるべしと考えられていました。腹筋、ありますよね。仰向けになって、頭と足を浮かせた状態で、5分とか、10分とか50人くらい一斉にやらせて、誰か一人でも音を上げると、はい全員1分追加、とか、音を上げそうな子のおなかに砂袋落としたりとか、雨の日などは体育館の中をぐるぐる走らされて、竹刀持った先生にどやされたりとかいったい何だったんでしょうね。水泳では、夏休みの間毎日1km泳がされたこともあります。
一番効果があったのはC病院の治療でした。当時は異端だと聞いていたのですが、手動の吸入器とボスミンを渡されて、いつでも吸入してくださいといわれていました。これはたいへん心頼もしいことで、最初のうちはお守りのようにどこへでも持って行ってました。注射や薬は、もう記録が残っていないのでわかりません。全身性のステロイドではなかったかと想像はするのですが。
この病院を最初に受診して印象深かったのは、後で母が言っていたことです。検査など一通り終えて結果を見た主治医の先生が、「お母さん、大丈夫、なおりますよ」と言われたそうです。それまでどの病院に行っても先生方は困ったなあ、という感じで首を傾げるだけで、こんなにお医者を頼もしく思ったことはなかったと、母は常々言っていました。不安なのは、母のほうだったのだなあと思ったものです。その後もこの病院で気の病だなどといわれたことはありませんし、対応も治療も過不足なく、最も信頼しています。
20歳代での大きな発作は2〜3回ありましたが、友達に仲間はずれにされたりとか、嫌でしょうがないことを不承不承にして疲労困憊したとか、きわめて心身症的でした。そのことに気付いてからは、疲れすぎないように、とか、発作が起きそうな予感がしたら肩の緊張を意識的に抜くとか、嫌なことはしないとか、自分でかなりコントロールできるようになりました。小児喘息が大人になると治る、というのは、こういうことを言うのかな、などと思ったものです。
事情が違ってきたのは、30歳を過ぎてからです。発作、という感じの発作ではないので、最近までてっきり喘息ではないと思っていました。今回などは咳、痰、声がれが始まって、風邪かなと思っているうちに気管のある部分がひりひりしてきました。中学生のときに肺炎になったことがあるのですが、それ以来風邪をひいて咳が出るときにはいつもひりひりするところがあるのです。そこがいつも炎症を起こすなあとは以前から感じていました。いつもなら長くても数週間で治るのに、1ヶ月経ってからはじめて喘鳴が加わり、極かるくですが呼吸困難もありました。しかしこのくらいのことは以前と比べたら、まったくとるに足らない軽い状態だと思っていました。というか、思うようにしていました。
見た感じは普通の人と変わらず、子どもを抱えて階段を上ったり、普通に生活してはいました。そうするように努力していました。具合の悪いことをアピールしても経験のない人にはわかってもらえないし、また甘えん坊だと思われるのが関の山です。
本当は苦しくて不安で仕方ないのです。軽くても、です。体力は少しずつ落ちてくるし、育児もつらくなってきて、いったいこれからどうなるんだろう、とまた子どもの頃のようになるのだろうか、と呼吸困難はそれ自体苦しいものですが、気持ちもとても暗くします。人並みに動けないということが目に見えない大きなハンディキャップになり、劣等感になり、卑屈な気持ちになります。もちろんそう考えることが増悪になると思って、一生懸命セーブするわけですが、そうするとどうしてもほかに気が回らなくなったり、愛想が悪くなったり、いらいらしたり、結局は少しずつ悪くなるのです。
気管の炎症が治まらない限り、悪循環は止まらないのですね。
喘息は確かに気の病かもしれません。しかし心が原因になっているというより、喘息が原因で心の問題につながるということの方が重要です。少なくとも、医療に携わっていらっしゃる方にはそう思っていただきたい誰だって、息苦しさが続けば、鬱陶しく思うでしょう。誰かなんとかして、って思うでしょう。
その喘息が心身症であれ、アレルギー疾患であれ、とりあえず目の前の苦しみを取り去ることが第一です。何か大きな誘因があるなら、気道の炎症がのぞかれてから対処すればよいのです。なにより喘息の不安を除くことこそが、心理的にも肉体的にも最良の治療なのです。
さて、長々いろいろ申しましたが、諏訪部先生のおっしゃっていらっしゃることが、全て正しいというのが結論です。医学的なことはわかりませんが、少なくともフルタイドはよく効いているし、服用は簡単だし、副作用もないとあればこれに勝るものはありません。
お役に立てればと思って書き始めたのに、すっかり私の鬱憤晴らしになってしまいました。お目汚しになってしまって恐縮です。最後まで読んでいただいてありがとうございました。