◆体験談010:27歳男性・会社員(平成11年12月14日)
・5歳頃までの俺:
記憶があいまいですが2〜3歳からよく風邪をひき熱がでて息苦しかったのを覚えてます。両親は近くの小さな町医者にみせては注射されておお泣きしていたといってます。うっすらと注射やだと駄々をこねたのを覚えてます。年に数回は行っていたみたいです。5歳のときに2〜3日発作が毎夜つづいて1日に2度3度注射しても回復しなかった時があったらしく、親は病院を変えてみることを思い立ったそうです。その時いった病院は市内で一番大きかった県立の病院でした。
・5歳〜小3までの俺:
初めていった大病院で俺は小児科の診察を受け医者から小児喘息だと言われました。親はうすうす分かっていたみたいで、これといって変わったことはありません。それも父が喘息持ちだったのが理由でしょう。ここでの治療は毎日の朝昼晩かかさず飲み薬と発作の頻度の日記をつけなさいとのことでした。また発作時にネブライザー(水蒸気みたいのが出るやつ)で痰をきり咳をおさえる治療を行いました。これにより私の発作は季節の変わり目におきやすいことが解ってきました。でもここでの通院はいい思い出がありません。大きいがゆえに外来は2〜3時間待ちがあたりまえ。待ってる間苦しくてどうにも我慢できずに看護婦さんにたのんで先に診察させてもらったこともあります。そのことで他の親からクレームや冷たい目で睨まれたことを覚えてます。また曜日単位で先生が決まっていて、いったときの先生で診察はばらばら。しかもどれも5分くらいでお決まりのせりふ。処置室でネブライザーでもやってきてくださいの一言。初めは良く効いたネブライザーは1〜2年で利きが悪くなり、もどってまだゼイゼイいってたらもう1回するだけ。そんな中、ある先生の診察でショックを受けました。普通小児喘息はおおきくなるにつれてなくなる。なおらないのは君があまえているからだ。もっとがまんしなさい。発作中の俺にこうののしり、挙げ句親にまで説教したこの先生は一生忘れないことでしょう。このあとこの先生の曜日はよっぽどひどい発作のとき以外は診察することはありませんでした。また飲み薬の処方も普通で2週間、長くても1ヶ月ごとに半日かけてもらって来た親の苦労は多かったとおもいます。幸いにも家は自営業なので時間的な拘束はありませんでした。おかげで発作時は比較的はやく病院にいけました。たまに両親が留守中に発作がおきたときは我慢してとても苦しかったことが数回あった記憶があります。
・小4〜小6春までの俺:
この頃は小児喘息といえば運動して体力をつけろ、乾布摩擦は体にいい、とか待合室に張り紙があった時代です。親も触発されたのか、小4になりたての発作の起きてない時期に強制的に柔道に入門させられました。これが友達が多くでき、クラスメートもやり始めて楽しくできたおかげか、発作がおきにくくなりました。これは今思うと体力がついて風邪をひかなくなったおかげやストレスが少なかった時期だからかも知れません。そして勝手に飲み薬をのまなくなりました。
・小6夏〜中3の俺:
小6の夏前に打楽器の人手不足の理由でたのまれて吹奏楽部に入りました。この為柔道をやる時間がなくなり、帯も黒(段とり)には届かないのでやめました。するとその年の秋に久々に大発作が起きたのです。また通院がはじまりました。このあと高校卒業まで打楽器をやりとても楽しかったので、柔道やめて発作が起きるようになっても後悔はしてません。飲み薬の量はそれまでに体格にあわせて徐々に増えていき、たまに種類が変わったりしてました。またこれまで自分が飲んでいる薬はどんな物だかは医者からは大まかにしか説明されませんでした。内容は発作をあらかじめ予防する薬。(現在の知識ではテオドールだったと思う)朝昼晩痰をきりやすくする薬
。朝晩。発作時にのみなさいと渡された薬。(ベータ2系?)主にこの3系統でした。すべて飲み薬で2種類あったり2、3錠だったり、とにかく薬づけにされました。このころには薬に抵抗感はまったくなく、いわれるがままに飲んでれはいいやと思うようになりました。このことから俺はもしかしたら小児喘息はなおらなくて、このまま喘息として生きていくのかなぁと思うようになりました。中2のときでしたがネブライザーを3回やってもだめなときがありました。先生は飲み薬がそのうち効く。これ以上薬は混ぜれないから生理食塩水でも吸ってろといって消えました。この時父があまりにも辛そうな俺にこっそり自分の気管支拡張剤(メジヘラ=強力な発作止め、心臓刺激作用も強い)を吸入させてくれました。見る見る発作が落ち着いた俺はメジヘラという麻薬に手を染めました。親に内緒で苦しいとき勝手に吸ったのです。そのうち気がついた親は使い過ぎには注意しろ、2回やっても利かなくなったら早退してこいといってメジヘラを渡してくれました。そんな中学時、グーニーズという映画でマイキー君という主人公が喘息持ちで苦しいとき吸入をするシーンがありました。この映画のあと喘息持ちだからといって馬鹿にされた記憶があります。弱虫とののしられて。吸入器を見せてみろ。おまえの命の元だな。などなど。悲しい記憶です。それから俺は喘息のことを隠すようになりました。吸入も隠れて吸ったし、よほど仲のよい友達以外俺の喘息は知らないことになりました。中2から中3の気管支拡張剤の回数は月に2〜3回でした。
・高校時代の俺:
薬づけは変わりませんでした。このころの発作時の通院は自分でいくようになってました。タクシーや入り口まで送ってもらったりしてですが…。大きな身体にもかかわらずカルテが小児科だからといって小児科で診察するのはとても恥ずかしかった。高1のうちに先生にいって内科に移してもらいました。そして小児という言葉が消えただけになりました。かわりに気管支炎喘息ですの一言が言い渡され俺の小児喘息は終わりをつげました。なんの感情も湧きませんでした。高校にもなるといじめっぽい事を言うやつはさすがにいませんでした。学業や部活や遊び、やりたいことはすべてやりました。おかげで休めないことが多くて気管支拡張剤の回数が飛躍的に多くなりました。平均月に1〜2本は使いました。100〜200回くらいですね。たまに無茶して3日で1本使ったときは親にこっぴどくしかられました。その時父に聞いたのですが、処方が必要なこの薬をどうやって手に入れてるのと聞いたら、知人の薬屋で売ってもらってるとのこと。この間メジヘラが切れて友達のうちまで朝早く親を呼んだり、心臓が止まるかと思った動悸も経験しました。点滴を受けたのも高1のときが始めてです。高校時代3〜4回季節の変わり目に点滴したことがあります。ここまでの間は親元で生活してましたのである程度規則正しい生活をおくりました。地元は田舎ですので比較的空気もいいと思います。おかげで薬でおさえている時や、普段は一般の人と見分けがつかない生活をおくれました。体育の授業のマラソン、水泳その他、何でもこなせてました。
・短大時代の俺:
運良く現役で短大に合格してA市に行くこととなりました。この時すぐやったことは近くに病院を探すことです。病院に処方されていた薬を持っていき同じような薬をもらいました。初めて薬の名前を覚えました。処方されたのはテオドール200を朝晩1錠、オノン(だったような)を朝晩2錠になりました。あと気管支拡張剤がほしいと相談してメプチンエアーを2週間に1本ずつです。でも何でもやりたがる俺は不規則な生活にどっぷり浸かり、親に頼んでメジヘラを毎月1ダース送ってもらう暴挙にでました。今おもえは恐ろしいことを2年間やりました。この間使ったメジヘラとメプチンエアーは桁違い。2年間で多分150本くらいだったと思います。気管支拡張剤のおかげで点滴は2年で3回だったかな。住まいは寮で周りの部屋に友達がいるので、万が一のときは呼べばいいので気持ちは楽でした。実際1度ですが気管支拡張剤が切れて発作が押さえられず、友達に病院に連れていってもらいました。この頃からたまに指先が震えたり、空腹時にすぐに気持ち悪くなるようになりました。また18歳の正月田舎に帰ったとき、飲んで騒いで発作がとまらず点滴&3日間自宅で高熱だして安静した事がありました。入院はしなかったが息切れで1日以上動けないのはこの時が始めてです。
・19〜23歳(就職1〜4年目)の俺:
短大も2年で卒業して就職しました。この時19歳です。メジヘラもって俺でも会社員になりました。初めの3ヶ月は研修でB市にいました。この時のまず病院をさがしました。同じく投薬してくれといったらいろいろな種類をもらいました。この時の薬はよく覚えてません。3ヶ月のなかで一度大きな発作で点滴を受けました。入った会社は全国規模の会社で配属はC市になりました。住まいは寮でD市。また病院探し。この時の病院が始めて呼吸器科があるとこでした。また薬がほしいといったら、いろいろ出されました。この時始めてアルデシンが含まれていました。この時はこの薬がどんな薬かしりませんでした。メプチンエアー以来の吸入タイプです。といっても当時は朝晩2回メプチンエアーのように吸ってとしかいわれないので吸ったらまずい。アダプターやうがいなど何にもきかされないまま1ヶ月でテオドール200とオノン2錠朝晩+ベロテックになりました。ベロテックはメプチンエアーと同じような物としか説明がありませんでした。D市は2年間で引っ越し。この間気管支拡張剤は親からのメジヘラは50本くらい+医者の20本くらいかな。あと大きな発作で1日入院を始めて体験。ほんとは数日かも知れなかったのをどうしてもはずせない友人の結婚式に出たいとのことで終わったらすぐきて点滴にしてもらった。3日間点滴に通った。その後E市に引っ越し、本当の一人暮らしになった。まずは病院探し。ここも呼吸器科があるとこでした。でも薬はテオドール200とオノン2錠
朝晩+メプチンエアー2週間こと2本。発作時は500mlの2時間点滴。でも相変わらずメジヘラも月に2本程度使ったので一月4本のメプチンとあわせて6本。危険なきがする。
・24〜25歳(1997)の俺:
この年の1月、とうとう恐れていたことがおきた。その日は朝から息苦しくてメプチンを多用していた。朝から12時間くらい働いた夜7時30頃。トイレでメプチンがきれ息苦しさが抜けない。動悸が激しい。とうとう職場で声が出ない大発作。筆談で近くの社員に救急車をたのむと、喘息だと救急隊に伝えてほしいと書いた。その後の記憶は途切れ途切れできずいたら病院で注射と点滴をしてました。生まれて初めての救急車。恐怖で次の日はさすがに休みました。たまたま土・日があって翌週にはまたもとの生活。でも医者はメプチンは切らさないようにと言っただけ。この時の会社の近くの医者にも行ってメプチンエアーをもらうようになった。こうして家のそばと会社のそばのメプチンエアー2週間に2本パターンで月に8本のメプチンになりました。このころ親の知り合いの薬局も閉店でメジヘラから足をあらいました。発作時は500mlの2時間点滴。
・25〜26歳(1998)の俺:
この年は比較安定でした。点滴が年4〜5回でした。でもに8本のメプチンはかわらず。もちろんのみ薬ずっと。飲み忘れるとメプチンが多くなるのはきがついてました。
・26〜27歳(今年)の俺:
今年4月に会社のそばのF市に引っ越し。よって病院は会社そばの1個所にしました。呼吸器科はないです。テオドール200が朝晩1錠。オノンが朝晩2錠+月4本のメプチンエアーです。10月までは変わらない感じでした。季節の変わり目と疲労が多いと点滴のパターンでした。そして11月4日の朝にまた動悸がでました。そのままタクシーで病院へ点滴受けました。でも仕事で会社へ。夜また動悸で点滴へ。過去の記憶がよみがえります。息苦しさがなんとなく抜けないのと微熱がつづいて不安から5、6、7も点滴。8日に点滴受けたが息苦しさは抜けないのと熱がさがらず一人暮らしの不安から入院を希望。13日まで抗生剤入り点滴と気管支拡張剤入り点滴をたくさんやって3日目から良くなった感じでした。でも心なしか気管支が苦しいのでメプチンをよく使う毎日。熱も2日ごとに出ている感じです。このままだとまずいと思って始めて本気で喘息の勉強を始めました。元々インターネットをやっていたのに喘息でサーチはしていませんでした。そして先生のページにいき着いたのです。今思えば俺は逃げていたんだと思います。喘息は治らない、薬は飲みつづける人生。あきらめていました。でも多くのページで本当の喘息が見えてきたんです。また普通の人と同じ生活ができるんだと思えるようになりました。そして俺の小さい頃と違い、すばらしい治療方法があることも学びました。吸入ステロイドの存在です。次回の診察の29日に主治医にピークフローと吸入ステロイドについて聞きました。もちろんフルタイドを希望しました。翌週まで待ってほしいといわれたので楽しみに待つことにしました。その日たまたま夜出かけたら階段で息切れして上れなくなって救急車のお世話になってしまいました。その後安静が良いと判断した俺はその週はお休みをもらいました。今思えば入院全身ステロイドのチャンスでした。翌週の12月6日楽しみに診察に行った俺を待っていたのは、ピークフローもどきとアダプターなしのアルデシンでした。ピークフローもどきとはボールが3つあって吸って3つともあがれば好調という数値のないものでした。アルデシンの説明もなく朝晩2回メプチンみたいにやってとのこと。普通の内科医の限界を見た感じがしました。その日のうちに近所で呼吸器科がある病院をさがして電話したらちょうど7日に専門医がいるとのこと。翌日新患として赴きピークフローと吸入ステロイドについてお願いしたらすぐに手に入れることができました。今は毎日テオロング200の1錠を朝昼寝る前の3回。スピロペント2錠を朝寝る前の2回。オノン2錠を朝寝る前の2回。メプチンエアーを発作時に使うように。そしてアルデシンをインパイアイースをつかって8パフを朝寝る前の16パフです。今日でちょうど1週間なので明日は診察です。今後の治療がうまく行くことを願って毎日ピークフローを取ってる日々です。
かなりの長文と文章が下手で読みづらいかも知れませんが本当にHPの方々や先生に感謝しています。これからはメプチンに頼らない生活をめざしてがんばります。ありがとうございました。