◆体験談012:30歳女性・主婦の方(平成12年1月18日)

初めてメールいたします。昨日、小児喘息の体験談のホームページを読みました。私は30歳(既婚・子供無し・女)です。現在でも薬を使っています。喘息は1歳前後から発症し自分自身の経験もあり、半分涙を流しながら読みました。自分と同じ体験をしていた人の話を知りたいとずっと思っていました。また、自分の事も聞いてもらいたいと思っていました。少しでも参考になればと思い先生にメールしようと思いました。どうしても感情的になってしまい、超・長文になってしまいかなり読みづらいと思いますがよろしくお願いいたします。

○幼少時代(都心)

私は、生後1年前後で小児喘息・アトピーと診断されたようです。母は喘息はありませんでしたが、その頃から既に花粉症だったといいます。父は気管が弱いほうでタバコが合わなかったと聞きました。2歳年下の弟も喘息持ちです。当時空気の悪いことで有名な都内の交差点のそばに住んでいたため、私は公害指定病患者と認定されていました。近くの小さな小児科医院にかかっていたそうです。当時の私の記憶は喘息の発作についてはほとんどありません。なので薬を飲んでいたかも覚えていません。4歳前後で肺炎と肋膜炎を患い2度入院した記憶はあります。

○小学校時代(関東南部)

環境を変える為両親は転地を決め、関東南部に引越しをしました。そこでは、近くの総合病院A病院にかかりました。転地に期待をしていた母は、その病院の担当医師に、
「ここは盆地なので喘息児童には良い場所ではないです」
といわれショックを受けたと言っていました。そこでは、2週間に1度ほどは通院していました。薬はテオナという錠剤を飲んでいました。

父は病院には内緒で、知り合いの医者にたのみネプライザーを買い、ベネトリンをもらってきてくれていました。飲み薬だけでは発作はおさまらず1日に何度となくその吸入をしていました。丁度小学校に通うようになりましたが、学校までの10分ほどの距離がとても長く感じていました

発作の頻度は記憶にはありませんが、いつも苦しく、体を「く」の字に曲げ息をするときに両手で足の付け根を抑えながら力を入れて息を吸い歩いて帰ってきていました。あまりに苦しく視界がぼやけてまっすぐ歩けていなかったようです。その状態から開放されるには、家でのネプライザーの吸入だけでした。その吸入をすると、苦しさは消えました。しかし息ができるようになると、頭がガンガンと音をたてるように痛くなっていました。自分では酸欠状態だったところに元どうりの酸素が急に入るようになったからと勝手に思い込んでいました。そのネプライザーも効かなくなると、病院の緊急外来に行っていました。

夜中や、朝方に発作が多かったのでいつも小児科の先生を呼び出していたようです。寝癖のついた頭の先生が外来の処置室にでてきてくれるのを、ゼイゼイ言いながらもうろうとした状態でまっていたのを覚えています。そこでは吸入をした後、ボスミンとネオフィリンという注射をしていました。その注射をすると良くなる事を知っていたので、針をさす痛みなどなんともありませんでした。注射をすると心臓がバクバクと言い出し頭もガンガンしてきてとても気持ち悪くなり座ってもいられず机につっぷして眠っていました。喘息の発作が起きるとほとんどっていない状態で医者に行くので、体が要求していたのでしょうか。その注射をしても発作がおさまらないと入院でした。小学校の間に5、6回1週間ほどの入院をしました。

そんな状態なので、学校は毎年20日以上欠席、保健室でも常連です。とりあえず保健室に行くと、保健の先生が家に電話をして母が迎えに来るというようなことが月に何度もあったようです。走ったり、教室の移動(階段)などをする日は朝から緊張していました。発作が起こるか1日無事過ごせるかが不安だったのです。小学校での担任の先生は毎年変わったので、その度喘息であることを知ってもらうのが大変でした。ある先生は、いつも体育を見学する私にむかって、
喘息に詳しい人に聞いたんだけど、喘息は気の持ち様で心が弱いから発作がおこるみたいでしょ。あなたはそうやって逃げてばかりいるからいつまでたっても喘息が治らないのよ。体育の授業出ないなら見学などする意味はないから来なくて良いから
といい、教室に私を残して行きました。私は1人でぼろぼろと悔し泣きしながら教室にいたことを良く覚えています。こういった言葉は、親や知り合い、友達、看護婦さんからも良く言われました。
心がよわいから喘息の発作が起こる
子供ながら、「心が弱い」ってどういうことなんだ。と良く考えていました。心が強くなる方法があるなら教えて欲しいとも思っていました。

父も、同級生と同じように遊んだり学校へ行けない私を嘆きあきれていました。私は「普通のことを出来ない私は駄目な人間なんだ」と8歳の頃から思い込んでいました。自分が大人になることを想像もできませんでした。
「仕事も恋愛もする事なども出来ず一生この喘息と付き合いながらいきていくんだろうなあ」
とあきらめていたような気がします。でも母は、喘息だからと特別扱いせず普通の生活させようとしていました。喘息に良いといわれると何でも飛びついていました。針・灸・漢方薬・スイミングスクール・電気治療・整体・減感作療法・乾布摩擦・宗教までありました。それでも、一向によくならず近所では有名な喘息児だったようです。同じ病院に入院する喘息持ちの友達は半分位が療養所に入って行きました。母は、そこにはどうしても入れたくなかったようです。今思うと、学校を休みながらでも、遠足や運動会にでられなくても、普通の学校で過ごせた事は良かったと思います。そんな状態で小学校を卒業し中学生になりました。中学校になっても喘息の状態は変わらず、父親の転勤により関東北部へ引越しをしました。

○中学・高校時代(関東北部)

気候と環境の変化で、相変わらず喘息の発作は続いていました。ネプライザーも相変わらず使っていました。この頃は手動のものも入手し、出かけるときは持って歩いていました。転居してかかった病院はB病院です。ここも大きな総合病院でした。薬は特に変わらず、テオドールとベネトリン(錠剤・吸入薬)、ビソルボンも出してもらっていました。ここでの救急の夜間の治療はひどいものでした。発作がひどくなりタクシーで救急外来にかかると、前のA病院と同じ注射をするのですが、その後なかなかおさまらないと、ビニール袋と大きなコップを持った看護婦が私の背中を何度もドンドンと叩き、
「水を飲んで吐きなさい、咳をして吐けば痰も一緒にでるんだから」

というのです。
「後はそれしかないのよ!!」
と、顔が真っ赤になっても咳をし続けるようにいわれました。途中でむなしくなり何度となく涙をながしました。まるで動物にしつけをするような態度に子供ながら腹が立ったのを覚えています。

他の個人病院に行ったこともあるのですが、発作が起きて苦しい事を伝えたんですが、初診であったこともあり、2時間以上待たされた後点滴をされただけで、発作がおさまらないまま家に帰され、それ以来小さな個人病院に行くのはやめました。他に行く病院のアテもなく、何度となくB病院に夜間に行きました。

高校に入ってから1度B病院に入院しました。この発作はとても苦しく、酸素不足を心配した医者が手首の動脈から血液をとって検査していた事が印象的です。注射には慣れていた私にとってもこの注射は痛かったのを覚えています。点滴をしながら、苦しさに1日うなりながらすごしていました。何度となく、苦しいから殺して欲しいと思いました。このとき初めて救急車に乗りました。学校では、同級生から体の弱い人というレッテルを貼られ、最初は同情され、そのうちあきれていくという感じでした。掃除などのグループに休みがちな私が入るといつも人数が1人足りないので損をすると陰で言われていると知りました。

○学生・独身時代(東京)

高校をなんとかぎりぎりの出席数で卒業した私は、学生となり東京にでてきました。学生時代は東京のC病院にかかりました。ここは国立の大きな療養所でした。ここでは、テオドールに加えてザジデン(抗アレルギー剤でしょうか?)、メプチン(錠剤)。加えて初めて、小さな吸入薬、アロテック(という名前だったような気がしますが…)とアルデシンが処方されました。

この気管支拡張剤には、本当に驚きでした。今まで苦しみながら学校に行っていたのが嘘のようでした。手動のポンプ吸入器を学校のトイレなどで隠れて使っていたのが、一瞬で効くのです。普通の人と同じように過ごせることに驚きでした。

学生時代は気管支拡張剤を1月に2本づつ使っていました。アルデシンはほとんど手をつけずに溜まっていきました。薬は親に取りにいってもらっていました。今思えば、甘えた者です。

学生時代はそのように過ぎていったのですが、就職後、2時間以上の通勤時間と月に50時間以上の残業、仕事のプレッシャーでまた発作が起こり始めました。夜に発作が起こり、救急車かタクシーで病院へ行き注射と点滴をすると夜が明けて朝方家に帰り、午前中だけ仕事を休み家で睡眠をとり出社していました。そんな事が持つはずもなく、1ヶ月休職することになりました。

この頃付き合っていた男性に、
「どうして、こんな病気を持った人と付き合わなくちゃいけないのか」
といわれて、自分は恋愛も結婚もやっぱりできないんだとショックを受けた覚えがあります。

使っていた気管支拡張剤は、だんだんと効かなくなっていきました。担当医にその事を告げると、メプチンエアーに変えてくれました。

それからは、喘息の発作はそれ程ひどくなくなり、今度はストレスのはけ口がアトピーの方へ向かいました。首から顔が真っ赤になり同僚からは、
「朝から酔っ払っているのか」
といわれました。

その後、私の体質を話して、理解してくれた相手と結婚をしました。結婚後は、前の仕事をやめたためストレスから開放されたようで、注射をするほどの発作はまったく起こらないようになり、飲み薬もやめて、メプチンエアーとアルデシンを3ヶ月で2本の生活を5年以上続けています。それでも、健康な人には薬がないと生きて行けない状態が信じられないようです。健康そのものの主人は結婚後、
「喘息がどんなものかわかってなかった」
と言いました。(本当の発作はまだ見ていないのですが…)

週に1度1時間半のダンスも薬なしで続けられるようになり、海外旅行にも行けるようになり、昔の自分からは想像ができません。今では子供の頃の様な発作はとても怖いです。先日、母と子供の頃の喘息の話をしたところ、母が、
「この前病院で喘息の発作を起こした子供のゼイゼイという音を聞いたら心臓が苦しくなってきて、そのままいてもたってもいられなくなった」
と、言っていました。自分自身も喘息で苦しんでいますが、母も精神的にかなり追い詰められていたようです。

結婚後、自分の体質を知らなくてはと、喘息関係のパソコン通信の会議室を読みあさりました。自分が使っていた薬の名前もそこで随分と思い出しました。これからこのまま、安定した状態で生活していけたら…と望んでいます。でも、子供時代の経験からの喘息の怖さや人間不信が今でも抜けず、自分が子供を持つ事に踏ん切りがつきません

随分と長くなってしまいました。自分自身の過去の確認作業のようなモノになってしまいました。ここまで読んでいただくのも随分大変ですよね。自分勝手な文章で、自己満足の部分も多いです。サイトで少しでも参考になる部分があったら嬉しいです。