◆体験談023:23歳女性・SE(平成12年6月8日)

長い長い愚痴になりそうで少し嫌なのですが、諏訪先生も「愚痴でも構わないのでー」とメールに書いて下さっていたので、私の喘息について書いてみようと思いました。

何人かの方も述べられていましたが、やはり喘息を持つものにとって家族との関わりは大変大きいものがあると思います。

自分が呼吸困難を体験したり、周りに喘息で苦しんでいる人がいたわけではなかった場合、親といえども無力なものなのでしょう…。

親も人間、正確な知識がなければ正しい対応をとれるわけではない。

自分が同じように呼吸困難を経験した事がなければ、辛さを共有できるはずはない。

「どうしようもない」と理屈で納得せざるを得ない事は山のよう。でも、感情は理屈では割り切れません。

「しょうがないから。理屈は通るから。間違っているわけではないから」

割り切れない思いを理屈で無理矢理割り切り、割り切ったつもりになり、割り切れなかったものは“しょうがない”と抑えていく。

私は、“諦める”ということを身体で覚えてきたように思います。

親は「親」という名前のついた、ただの生き物。“親だから、”どうという事ではないのだと。“家族”とは所詮、赤の他人の集まりなのだと…。いや、むしろ“家族”だからこそ、“親”だからこそ、余計な期待は一切せず、頼らず、甘えない…。望まなければ、落胆する事はない。

私が喘息と診断されたのは、小学校5年生。家族に4人目の子供が増えた時、女の子が3人続いた後の待望の長男が産まれたその年でした。

何かが違うと感じたのは、体育の授業で持久走の時でした。

確か冬だったと思います。

私はその頃までは運動の大好きな活発な女の子でした。

毎年、風邪は引いていましたが特に体が弱いわけでもなく、負けん気も強く男勝りで常に走り回っていました。

その日の体育の授業も、一番最初にウォーミングアップを兼ねた持久走がありました。

いつもなら先頭を切って走っているのに、その日はなぜか息が出来ず、走り初めこそ先頭にいたものの走り終わる頃には皆から遠く離され、最後尾のクラスメートが見えるか見えないかの距離を半ば歩いていました。

それまでそんな息苦しさを感じた事はなく、呼吸の苦しさと得意なはずの持久走で最後尾になっている悔しさと、そしてサボっているのではないかと見られる事の恐怖で頭がいっぱいでした。

しかし、その時喘息という言葉は身近ではなかったので突然どうした事かと思いながら辛い息をこらえ何とか普通に振る舞おうと必死でした。

その後、私の喘息はどんどんひどくなっていきました。

最初の1年ほどは咳が止まらず、一晩中、咳をし続けていました。夜の8時ごろから始まった咳は、治まる事を知らず午前0時を過ぎて家族が寝静まる頃から数時間、ピークを迎えました。

横になる事などもちろん不可能で、部屋から数メートル先にあるトイレに行く事でさえ10分以上かかりました。

発作を起こした時は丸くうずくまる体勢が一番楽だったので、いつも丸くなっていました。丸くなっている体勢から身体を起こす事を決心し、一旦身体を起こして数分その姿勢を保ちながら、今度は立ち上がる事を決心しタイミングを計る…いつ立ち上がっても結果は変わらないのでしょうが、何もしなくても酸素が足りない状況では、立ちあがるという事はものすごく負担の大きい事です。

顔を上げる事すらままならない状態では、部屋から階段を2段下りた先にあるトイレは、遥かかなたにあり、布団の上からトイレまでの往復は無謀で、元気な時ならば3歩ほどで到着する部屋の扉でさえ、発作時にはそこに行く動作の数と必要な酸素と距離を考えると、とても遠い場所でした。

翌朝行った病院では、血液検査と点滴、レントゲンを取られたような気がします。その時のレントゲン写真は気管支が真っ白に映っていて、それを見せられた母はかなり驚いたようです。その話を聞いたのは、私が中学に上がりある程度喘息の知識を身につけた後だったような気がしますが…。

この頃、喘息という診断が下ったような気がします。

慣れていないうちの喘息の発作というものはとてもしんどいものです。

時計の針は深夜を指し、まだまだ夜は続く事を、朝は当分来ない事を意味しています。

家族は寝静まり、起きているのは自分だけ。

朝になれば、6時ごろになれば疲れ果てて少しだけ眠れる事を知っていましたが、その眠りを迎えるにはあと何時間も続く地獄を乗り越えなければいけません。

もう、10分くらい経ったかなと思って時計を見上げても、時計の針はさっきから2、3分しか進んでいない。母を起こした事もありましたが、育児で疲れている母をそう何度も呼ぶのは気が引けて長い夜を一人で耐え抜くしかありませんでした。

あまりの呼吸困難の辛さに、一度だけ、母に言った事があります。

「どうして、病院に連れていってくれないの?」

この時返ってきた母からの返事は、発作の度によみがえり、忘れられないものとなりました。

弟が小さいのに、あなたを病院には連れて行けるわけないでしょう?

確かに…弟は当時生後数ヶ月でした。

誰が見ても、母親が傍にいなければ生きていく事すら出来ないであろう乳児と、小学校高学年の子供。秤にかければ弟側に大きく傾く事は当たり前です。

「苦しいと言ったって、ついさっきまで騒ぎまわっていたのに。放っておいても死にはしないのだから」

“死にはしないのだから”そう考えてもおかしくないと思います。当時、母も喘息に対する知識は全く持っていませんでした。

喘息と診断されてから喘息関連の書物等を幾つか調べていた私には、その母の言葉と対応はかなり衝撃的なものでした。喘息の死亡率は0ではなく、病院でもらったパンフレットの「発作の程度」という所には、“横になる事が出来ず、話せず、トイレにも行けない”発作は「重度」で、「速やかに医療機関を受診しましょう」と書いてあります。

私にはそれらすべてが当てはまり、尚且つ、救急病院は家の近くにありました。夜間診療もしている救急病院は、家から徒歩10分・自転車で5分の距離にあるのです。自家用車を持たない我が家でも、通えるはずの距離。にもかかわらず、私はその救急病院へ行く事は出来なかったのです。日が昇ってから行く事は出来ても、発作の真っ最中に病院を訪れる事は私には許されませんでした。

もちろん、そう答えた母を一方的に責める事は出来ません。父は子育てには一切口を出さない人で苦しむ私を珍しそうに、またはうるさそうに眺める事はあっても、「大丈夫か?」と心配した事は一度もなかった人です。非協力的な父、そしてまだ小学校に上がっていない妹と1歳にも満たない弟。乳飲み子を抱えた母が私にまで手を回せなかった事を、私は責める事はできません。ただ、「自分は必要ではないのかもしれない」と思っただけです。

どう見ても、弟に手がかかるのは当然で、分かり切った事で、姉としては我侭は言えず、親に手をかけさせることは出来ず、自分で自分の面倒を見るのは当たり前で、自分だけでなく小さな妹の面倒も見なければイケナイ。当然の事です。そしてそれは、発作を起こして呼吸困難に苦しんでいる時でも有効でした。“弟が小さいから”病院へは行けない私。体力の限界を迎えながら、ふらふらになって朝一人で病院へ向かう私。もちろん、母も可能な限り病院へは付き添ってくれましたが、一緒に病院へ行くのではなく、会計のために後から来てくれていました(苦笑)。

親の注意をうまく引けない子供のヒガミかもしれませんが、弟を最優先にされた事、弟の存在に負けたことは私を自己否定&存在否定に溺れさせました。

“必要でないから、病院へは連れて行かないのだ”と。

“いてもいなくてもいいから、発作起こしていても、苦しいとどれだけ訴えても、何もしてくれないのだ”と。

本当に親が何もしなかったわけではなく、きっと、いろいろ出来る範囲ではしてくれていたのだと思います。けれど、強く残る記憶はNEGATIVEなものが多いのです。発作明けで学校を休み、少し元気になってきた夕方。元気そうに動き回る私を見た姉は、「なんや。あんた元気やん。学校休んだのに」と言います。夕方になってやっと、普通に動き回れるようになった事を分かれというのが無理なのでしょう。

そのうち、私は発作を起こしている事を親に知らせる事もしなくなりました。“しんどい。息が出来ない”そう自分から訴えなくても気付いてくれる事を願って…。虫のいい願いですね(苦笑)そんなことで親の愛情度を図るのは愚かな事だと思います。しかし…気付かないと分かっていながら期待してしまうのです。

「いつか、気付いて病院へ連れていってくれるかもしれない」と。

眠そうな顔で起きてくる母。弟の泣き声にすぐに部屋に戻ってしまう母。私の望みは病院へ連れていってもらう事だけでした。それが叶わないなら、疲れた母を私の傍に拘束しておく理由はありません。必死の思いで呼んでも起きてこない時もある。声を出すのも辛い時、大声で母を呼ぶ事にどれだけの意味があるのでしょうか。求めても返ってこない事を認めた時、私は期待する事をヤメました。「しょうがない」と、自分に必死で言い聞かせて…。発作の辛さは、ただ我慢するしかない事なのだと。甘えてはいけないのだと。

誰かを呼べば、誰かに助けを求めれば、楽になれるわけではない。楽になるどころか、心身ともに更に辛くなるだけなら、行動を起こす事自体をやめてしまえ…。

中学に入ってからは更に過酷な学校生活が私を待ち受けていました。何よりも辛かったのはやはり体育の授業です。体育の授業はまず最初に校庭のランニングから始まりました。ランニング以外なら基本的にこなせるのです。球技も短距離も障害物競走も水泳も、私は大好きだったのです。気管支がコワレルまでは、運動神経には自信があったのです。瞬発力は自信があるし、衰えてもいない。ただ、ランニングをすれば必ず運動誘発性喘息の発作が起きる…。他の種目なら負けないのに、クラスメートに何周も遅れて校庭を走る惨めさ。すぐに次の行動に移れない重い体。それでも「休ませて下さい」と言えずに必死の思いで走っているのに、体育教師の口からは「もっとちゃんと走れ」「もっと走らせるぞ」「遅れてきたやつはあと何周!」などという言葉が飛び出してくるのです。死ぬ思いで走り切った後、完全な酸欠状態で続く体育の授業。好きな球技も酸素なしでは十分に動けない。「もっと頑張れ」と言われる度に悔しい思いを噛み締めました。

自分が体育得意だから、運動神経に自信があるから、みな出来て当たり前だと思っている教師。再生不良性貧血での生徒にまで、その体育教師は「もっと早く、あと何周追加」と叫んでいました。今でも声を大にして叫んでやりたいと思います。「運動神経しかない教師なんて、いらない。一度、1/2の太さになった気管支で校庭を10周してみろ!」

体育関連の行事はすべて憂鬱でした。1年生のクロスカントリーは山登りでした。山登りもキライではないのです。空気さえ、確保できるのなら。呼吸さえ、問題なく出来るのなら。クラスメイトから、学年全員から遠く離れ、最後尾の先生に手を引かれ、背中を押されながら登る山道。呼吸をするために立ち止まる事も許されず、ただ、全身で呼吸をし足を動かすしかない。遅れる事数十分で頂上に辿り着いたと思ったら、「遅かったね、何してたん?」という言葉。決してサボっているわけではないのに、何も知らない周りには遊んでいたように見えたのでしょうか。結局、前半で体力を使い果たし後半は私の体力の限界を察知した先生の車にピックアップされましたが、「いいなぁ」というクラスメートの言葉に何とも言えない悔しさを覚えました。私だって最後まで自分の足で歩きたかったのです。クラスメートと一緒に。だから、自分からSOSを出す事はしなかった。無理をしても、気力はあっても気管支がついてこないことを認めざるを得なかった私は、翌年以降クロスカントリーには出席しませんでした。「サボりやろっ」というクラスメートの言葉に、「仕方無いやん!息できへんねんから!」と心の中で叫び返すしか出来なかった私は、次第にクラスメートとも距離をとるようになっていました。

結局の所、患っていない人には分からないのです。息が出来ない、ということがどんな事なのかを。「吸って、はいて」を意識する事なく普通に生活している人には、“無意識に”呼吸が出来る事の素晴らしさを、“知る”ことは出来ないのです。

「大丈夫?」というクラスメートの言葉も、素直には受け止められませんでした。元気な人に何を言われても、苛立ちを感じるだけで楽にはならない。言葉を発する事もしんどいのに、それでも無理矢理顔を上げて笑顔を作ってみて「大丈夫。ありがとう」と返す、その一連の作業も辛く、「大丈夫?って簡単に言うけど、このしんどさ分かるの?」とひねくれてしまう。そんな自分を嫌だと思っても、募っていく孤独感を紛らわせる事は出来ませんでした。特別扱いされるのは嫌。“出来ない”と言うのも嫌。でも…遊びにしろ旅行にしろ体育の授業にしろ、皆と同じペースで出来る事は限られ、無茶をすればその夜は発作で眠れない。穏やかな夜を確保するために、少しでも気管支を広げておく為に、「私、それ出来ないから」と口にする悔しさ、情けなさ。喘息さえなければ…すぐに塞がってしまう自分の気管支を呪い、数年前の自分のように、何の障害もなく走り回っている友達の姿を遠くから眺めながら、諦める事を身をもって覚えていった年月。

学校と家と…どちらにも居場所を見出せず、心身ともに追いつめられていたこの中学時代は一番発作のひどい時期でした。体調が悪いのは毎日の事で、しんどいのが当たり前だからもうなんとも思わない。精神的にも追いつめられ過ぎていて感情が麻痺。今考えると、完全に心身症からの発作でもあったようですが、当時は毎日を過ごす事に必死で何も感じていませんでした。ギリギリまで追いつめられた心の叫びを、身体がSOSとして出していたんだろうな…と、振り返るようになったのは、心身ともに疲れ果て、人間不信の固まりになって高校へ進学した後でした。

少し地元から離れた高校へ進学した私の喘息は中学時代よりはマシになりました。体育でランニングを強制される事はなくなり、穏やかな地域だった事もあり、精神的には楽になりましたが発作は続きました。この頃には主治医にサルタノールを出してもらうようになったので、発作が起きる度にサルタノールに頼るようになりました。中学3年の時にもう一人弟が生まれた為、私はもう完全に親に頼らなくなっていました。「病院へ連れていって欲しい」など、口にするわけがありません。

親も相変わらず私が発作を起こしている事には気付きませんでした。発作を起こし30分おき使うサルタノールエアゾールも効かない呼吸困難。苦しみ、体力を使い果たした翌朝、「いつまで寝てるの!学校に遅刻するわよ!」と部屋に来る母親。やっぱり今回も気付かなかったか、と苦笑しながら「発作明け。保険証とお金を頂戴」とだけ答える私。

いつもより大きな発作を起こした後、気管の痛みと腹筋・背筋の痛みに耐え兼ねて居間で泣いていたことがありました。ちょうどその時知り合いが訪ねてきて、どうしたのかと尋ねた知り合いに、母は「いつもの喘息の発作よ」と困ったように話し、「もう、自分の部屋で休みなさい。ここにいてもしょうがないでしょ」と私に言いました。

一晩、独りで朝が来るのを待っていたのです。日が出ている時間くらい、誰かと一緒にいたいと思ってはいけないのでしょうか。夜は皆にとっては休息の時間だから、邪魔せずに独りで耐えてきたのに。休めるものならば、静かな自分の部屋で休んでいます。休めないから、起きているのに…。発作に苦しむ私はそれほど目障りだったのでしょうか。

親を、家族を、身近に感じたり頼る事が出来ない私。所詮、独りなのだと、“家族”に所属はしていても、ただ“○○家”という枠組みの中に名前があるだけで、親にとって家族にとって、私はどうでもいい存在らしい…。

そんなことはないかもしれません。子供をどうでもいいと思う親はいないと、そう思う人も多いかもしれません。

でも、そう考えると、「何故?」という言葉が出てきてしまうのです。

「なぜ、私は病院へも行けず、独りで苦しまなければいけないのか」

「弟が小さいから」が答えでしょうか。理屈は通りますが、それでは私は納得がいきませんでした。納得できない為に、適当にこじつけを考えて自分に嘘の理由を与えるしか、私には出来ませんでした。つまり、「必要ないから」と。

発作の夜を過ごす度、いつも頭を過ぎった事があります。

“この発作が最悪の事態を招いた時、朝、冷たくなった私を発見した親は泣くのだろうか?”

“医療費ばかりかかる私は、さっさと消えた方が皆の為かもしれない”

“家族”にとっての“私”の存在がなくなるのと同時に、“私”にとっての“家族”も意味がなくなる…。

自分にとって大切なものは?

周りにとっての自分は?

周りの中での自分の存在意義は?

私にとって発作は恐怖です。いつ、呼吸が止まってしまうか…。

しかし、“ここにいなければならない”という気持ちがなくなってからは、発作は苦しいから嫌だとは思いますが、怖いものではなくなりました。

いつ、息が止まっても構わない。

どうせなら、さっさと止まってほしい。

ただ、何時間にも及ぶ呼吸困難の末に死ぬよりは、心臓を直撃してさっさと死んでしまったほうがらくだと思う。

本当に死に直面したら、こんな甘い事は思わないのでしょうか。

やはり生きたいと切実に望むものでしょうか。

私には分かりません。

この人の為にと思う誰かはいないから、誰かの為に生きる必要はないし、自分の為に生きようとも思わない。

ただ、心臓が動いているから無理矢理止めないだけ。

所詮、人は独りで生まれ、独りで死んで行く。苦しみを他の人が肩代わりする事は出来ない。

すごく勝手な考えなのかもしれません。もしかしたら親や家族は私に手を差し伸べてくれていて、私が気付かなかっただけかもしれない。

私が頑なになり過ぎていただけかもしれない。

でも…頑なにならなければ、私は私を守る事が出来なかった。

うまく表現できない気持ちが、思いが、消滅する事なくいつまでも居座っているのです。

捕らわれたくないのに、いつまでも引きずりたくないのに、でも、逃げられないのです。

無事に高校を卒業した私は大学へ進学、そして就職へと進みました。そして、発作を通して培われたこのある意味“勝手”な考えを克服しなければならなくなりました…。

なんだか、ものすごく愚痴めいた文章になってしまいました。

「甘いっ!」と思われるかもしれません。

いい加減にしろと、言われるかもしれません。

これは実際にあった事で、実際に言われた事ばかりです。

しかし、私は母親とも家族とも、別に犬猿の仲ではありません。マイナス感情しかないわけではないのです。

そして、これには続きがあります。

こんな過去を抱えて社会人になった私が突き当たった大きな壁。

「弟が小さいのに〜」

という一言の呪縛から解放されようと、子供時代のいろんな憎しみや確執から逃れようと、もがいて、出た結論があります。

その結論は、よろしければ続きに書かせて頂きたいと思います。

(続く)