◆体験談023:23歳女性・SE(平成12年6月16日)<<続き>>

 

家族にとっての自分の存在を見出せなくなった私。

発作のしんどさは嫌でも、発作によって生がなくなる事を恐れなくなった私。

期待する事の虚しさに疲れ、理解を求める事をやめ、甘える事も頼る事も自分に許せなくなった私。

「助けてくれると、何かしてもらえると思う、期待する事。そのこと自体が間違っている」

というポリシーを持ってしまった私。

誰に対しても…親。兄弟。友人。恋人…。

所詮、人は独り。

辛さを、苦しさを、共有する事も、理解する事も、肩代わりする事も出来ない。

だから…、

“自分の面倒は自分で見る。何も期待しない。誰が何をしても、くたばる時にはくたばるのだから”それが、私のやり方。私の、私に対する考え。

あまりにも強引で勝手過ぎる考えのような気もするけれど、呪縛が強すぎて逃れられない…。

高校を卒業した後、私は大学に進学しました。

5人きょうだいの上から2番目で、裕福な経済状況ではないうちでは親に学費の面倒を見させる事は出来ません。

「自分の面倒は自分で見るから」

親に言われるまでもなく、私はアルバイトと奨学金で自力で大学へ通いました。

「だから、私の事に口を挟まないで!」

と宣言して。

入退院を繰り返してきたわけでないと言っても、低気圧が近づくと即座に反応して鳴りだす気管支を抱えながら、私はかなりハードなアルバイトを続けて大学に通いました。

“誰も頼れない。自分で、何とかするしかない。自分が決めた事だから、自分がやりたくてやってる事だから。自分の言動の責任は、自分で取る”

呼吸困難に苦しみながら独りで過ごしてきた夜は、私をある意味で強くしました。精神的な自立…? 多少の事は我慢する。身体的な苦痛も。

発作を起こす度に自分に言い聞かせて…、

「まだ、大丈夫。まだ、きっと…だって、我慢できるから」

発作の苦しさを思えば、独りで耐える夜を思えば多少のことなんて我慢できる。誰かが助けてくれるとか、誰かに頼るとか、そんな期待を持たずにひたすら自分の事は自分でする。自分の事しか考えられない…。

何度も書くようですが、決して家族の中で私がないがしろにされていたわけではないのです。母が私を疎んじていたわけでもないでしょう…。むしろ、私は兄弟の中で好き勝手をさせてもらっていたようです。高卒で就職して家計を支えたほうが良かったかもしれないのに、何も言わず好きにやらせてくれた両親。身体が丈夫ではないくせに、独りで大学に行くと言い張り、アルバイトで毎日深夜に帰ってくる娘を起きて待っていてくれた母。

楽しい思い出が山のようにあることは、アルバムを開けば一目瞭然でしょう。アルバムにも記憶にも、楽しかったHappyな思い出は奇麗に整頓されて入っています。普段は忘れている事でも、何かのきっかけで思い出そうと努めた時、多少の美化と共に現れる。

しかし、それだけ楽しい思い出がありながら、なぜ私は家族の中での自分の存在を否定するのでしょうか。愛されている証拠は山のようにあるのに、それらを目の前にしても尚、“親は親と言う名のついた生き物。ただの人間”だと言い切ってしまうのでしょうか…。

それは…癒されない傷が多すぎるから

癒されないままの大きな傷。いくつも…。

何年経っても、小学生が大学生になり社会人になっても、塞がらない傷口。

傷ついた事にも、癒されていない事にも気付かなくても、憎しみだけは明確に存在する…。

楽しい思い出は、“楽しかった”記憶となり、整理される。苦しかった思い出は“苦しい”まま、取り残され、整理できずに放置されている。傷は、消毒して手当てしないと治らないもの。“傷ついている”ことにすら気付かず、放置され続けると…、そう簡単には治せないほどの結果を招く…。そして大抵の場合、渦中にいる時にはそれがどのくらい大きな傷かは分からないのです。本人にも。

転んですりむいた時、どこかにひどくぶつかった時、その時には痛みが大きすぎて感覚が麻痺したり痺れたりする事があると思います。しばらく経って、じわじわと広がる痛みに怪我が思ったより大きかった事に気付いた事は、誰でも1度くらいはあるのではないでしょうか。

それと同じで、嫌な思い出は後から、憎しみが倍増されて思い出されてしまいます…。消化されないまま放置された年月分、倍増されて。

大学を無事卒業し、私は生まれ育った関西を離れ東京に就職を決めました。初めての一人暮らし。部屋はフローリング。それまで畳に絨毯をひいた部屋で生活していたためハウスダストに囲まれていましたが、フローリングになった途端私の気管支はかなり落ち着きました。

そして迎えた初めての冬、目の回るような忙しさから一転して突然時間のゆとりが出来た時、私は自分が抱え込んでいる憎しみの大きさに初めて気付きました。ひたすら学校に通っていた学生時代は、とにかく忙しくて自分を振り返る余裕など持ちあわせていませんでした。

家族と離れ、知り合いのいない土地で文字どおり独りになった時、喘息が始まって以来抑え続けてきたものが遂に爆発したのです。途切れる事なく思い出されてくるのは、先に書いたような嫌な思い出ばかり。

理屈で割り切ったつもりになっていた感情が、実は押え込まれていただけでちっとも割り切れていなかったを痛感させられながら、私は母を初めとする家族への憎悪に完全に捕らわれてしまいました

10年以上経った今、ずっと忘れたつもりだった母の言葉が耳の傍で聞こえるのです。

弟が小さいのに、あなたを病院へ連れて行けるわけがないでしょう?

大人にならなきゃ。

「しょうがなかったじゃない。しょうがないじゃない?」

そう言って、言い切って過去の出来事の一つとして忘れなきゃ。

思うそばから沸き上がってくる想い。

「私の存在はどうなるの?」

姉である事が嫌だったわけではない。姉であるがゆえに、我慢しなければいけないのが嫌だったわけではなく、発作で苦しむ“わたし”を軽視されたことが嫌だった。

呼吸困難からひしひしと忍び寄る死の恐怖。

大人からすれば大した事はないと思える事でも、子供にすれば大きなものです。

唯一、頼りに出来る親にないがしろにされたと感じるのは、子供心には大きなダメージでした。

私の時計は、あの瞬間に止まってしまったのです。

「しょうがない」なんて一言で、そう簡単にケリがつくわけがない。許せるわけが…。

抑えようのない憎しみに取り付かれ、暴走する感情に飲み込まれる日々…。

仕事が忙しければ忙しさで脇においておけるのに、たまたま大きな納品を終えた直後で仕事は定時終わり&週休2日確保可能。

しかも、その大きなシステムの納品を終えた直後、終電帰り&徹夜&休日なしのハードスケジュールで体調管理に隙が生じた私はサルタノールの使い過ぎから深夜の会社で倒れ、救急車で運ばれていました。

能力主義の会社では、健康管理も自己管理の一部とみなされる…。

喘息持ち→発作→体調管理不足→仕事が任せられない

となる可能性は低くありません。私にすればいつものサルタノールの副作用でも、事情を知らない他の社員からすれば深夜のフロアで脳貧血を起こして倒れこんだ私は救急車ものです。サルタノールの使用量が激増していた為、「副作用で脳貧血を起こす事はあるけれど、絶対に救急車を呼んだり騒いだりしないでほしい」と同期に頼んではいましたが、私の願いも虚しく気がついた時には救急車のサイレンが…。

心配して救急車を呼んでくれた事を素直に感謝すべきなのに、独りで発作を耐える事を当たり前だと思っていた私には、その周りの対応すら疎ましく感じられました。目に見えて呼吸が辛いわけでなく、意識がなかったとはいえそんなのすぐに戻るのに…。何より、そこまで心配する必要がないではないか!と。

家族でさえ心配しなかった私に、赤の他人に心配されるだけの価値があるのでしょうか?

もう、いいんだ。終った事だ。

そう言いたくて言えないもどかしさ。

母の言葉で止まってしまった私の時計。その時計は今もまだ11歳の私を指している…。

恨みも憎しみも淋しさも、全部押し殺して今までと変わらない時間を過ごしていきたいのに、限界まできた歪み。

弟に罪はないと分かりながら、弟に冷たく当たってしまう私。

止まってしまった私の時計のネジを巻いて、時計の針を今の時間まで進めないと私はきっと壊れてしまう…。

もう、限界。

呪縛からも、憎しみからも逃れたいのに、がんじがらめに捕らわれた自分の心を解放したいのに、気持ちの整理がつかない。

あの時、泣けなかったくせに、今、流れ出すと止まらない涙。悔しさだけは、どれだけ月日が流れても薄まらない…年末の帰省を目前にして揺れ動く心。

憎む事にも疲れ、おさまらない自分の感情を持て余して途方に暮れていた時…。

私は倒れた後の私の態度があまりにもひどいと、同郷の先輩に怒られました。

「お前な、勝手過ぎるわっ!」

会社で倒れ救急車で運ばれた数日後、回復した私は関係者にお礼と共に「もしまた倒れることがあっても、二度と救急車は呼ばないで下さい」というお願いのメールを飛ばしていました。喘息の事情を知らない人が心配して好意で救急車を呼んでくれたのは分かっても、私にはそれを心から感謝する余裕はありませんでした。とにかく、騒がれたくなかったのです。独りで対処できるという思いが強すぎ、周りが差し伸べてくれている手を振り払ってしまっていました。心配していた人から見たらあまりにも常識外れな行動だったのでしょう。

勝手だと言われた時、正直な私の気持ちは「なんで!どこが?」というものでした。だって…“今までずっと、独りで耐えてきたんだから!”

発作が起きる度に家族に心配され、病院へ連れていってもらい、処置を受けてきたわけではないのです。それどころか、病院へも行かず、親にも言わず、ただ発作明けに病院へ行くだけ。「あなたの咳がうるさくて寝れなかったわ」と言われて…。心配されるだけの価値はないのだと自分に言い聞かせてきた私には、“勝手”だと言う言葉は意味は分かるものの、納得は出来ない言葉でした。

ただ、落ち着いて考えれば、確かに人の好意をまるで余計なお世話と言わんばかりの行動をとっていたとも考えられる…。そう言いたかったわけではないにしろ。

心配され慣れていなかった私には、周りの好意を素直に受け取る事は怖かったのです。本当に、心配してくれているのだと、認めるのが怖かったのです。“期待しない事、頼らない事”そう、言い聞かせてきた私の砦が崩されてしまいそうで。

伸ばした手を無下に振り払われる事がもう一度でもあったら…。私は再び絶望の淵へ転げ落ちていくのでしょうか…。そんなことになれば、私は手を伸ばした私自身を信じられなくなる。

ただ、好意を踏みにじるつもりはなかったのだと、余計なお世話だと言いたかったわけではなかったので、私はその事を必死で説明しました。今まで、喘息と私の家族との関わりなど数人にしか話した事がなかったのに。もう、何がなんだか分からなくなりながら、うまくまとめられないまま…。

“ずっと、昔から心配されないのが当たり前だったから。弟が小さかったし、発作起こしてても、部屋で倒れてても誰も気付きもしなかったし。…だから、なんでそんなに心配するのか、騒ぐのか、私には分からなかった”と…。

返ってきた言葉は、

“昔が、昔が”って言訳がましいっ

言訳がましい。

憎しみに捕らわれて、「弟が〜」の母の言葉に捕らわれてそこから抜け出せなかった私には、この一言は強烈でした。

母の言葉も、今までの苦しい思い出も、全部過去の事。それを今の今迄引きずるのは、それを今の私の言動の原因に持ち出すのは、言訳に過ぎない。その事は私も薄々気付いていたのです。「昔がそうだったから、今好き勝手やっても許されると言うわけではない」と言う事は。

ただ、認めるには余りにも過去の私が可哀想すぎたのです。物分かりの良い振りをして、「姉だからしょうがないんだ。私一人くらいいなくても、うちには子供はあと4人もいるんだから」そう言い聞かせてきた想いを、自力で打ち破る事は出来なかった…。

誰にも訴える事なく、独りで酸欠の夜を過ごしてきた“わたし”。その夜を知っているのが私しかいないなら、例え都合のいい言訳になっていたとしても、「苦しかったんだよね。淋しくて、夜が長くて…」そう自分に報いてやれるのはわたししかいない…。

苦しかった私は存在するのです。それを、なかった事には出来ない。記憶のかなたに葬り去る事は、デキナイ!

けれど、それはあくまでも自分の中でのみ有効で、それを“今の自分の行動の免罪符にしてはいけない…”

“言訳がましい”という言葉に、反発を覚えなかったわけではありません。あなたに何が分かるの(?)と思う節がなかったわけでもありませんが、それらよりも自分でも薄々と感じていた事をはっきりと指摘された事で、「もう、逃げられない」という想いの方が大きかったのです。

Negativeだった過去にまったく関わった事のない人。その人が私がウダウダとならべた恥ずかしい過去を聞き、聞いた上で下した冷静な判断。変に同情するわけでもなく、馬鹿にするわけでもない…反論の余地はありませんでした。

決定打を求めて疲れを感じていた頃だったこともあり彼の一言に“もう、認めなければ”そして、“抜け出せるかもしれない。この泥沼から”という希望が見えたのです。

過去から。「弟が小さいのに〜」という母の言葉から。親も赤の他人だと自分に言い聞かせた日々から。ただ、耐える事しか出来なかった発作から…。

そして、それらに捕らわれ抜けせず、都合のいい“言訳”として持ち出してしまう自分から。

“卒業”すること。

“いま”は違うはず。

発作を起こしたら、病院に運んでくれる人はいる。体調が悪いと心配してくれる人もいる。余りにも態度が悪いと叱ってくれる人も。

特別だから心配してくれるわけでなくても、ここに私は存在していて、同僚として同期として普通に心配してもらえる環境に私はいる…。

いつまでも自分が育った狭い環境だけを見ているのではなく、今の現状を認めなければいけないのかもしれない…。

喘息とそれに派生した事柄を“免罪符”にしないこと。

“どうでもいいのよ”と、逃げない事。

今の自分の欠点を、喘息を原因に正当化しない事。

そして、母や家族にとっての自分の存在を自分で確認、認めること。

どこに端を発しているかは別として、自分が必要とされ、心配される存在であることを認めた時、自分の存在はどうでもいいんだ。と自棄になる事も、放っておいてよ。と言う事も出来なくなる。

手を差し伸べてくれている人がいたら、「いらない!」と突っぱねるのではなく、とりあえずおずおずとでも自分の手を伸ばしてみる…。

100%誰かと重なる事は出来なくても、思いやる事も、理解しようと努める事も、苦しみを和らげてやりたいと思う事もある。そしてそれは、自分に向けられる事もあると言う事を認めてみる。

自分で築き上げてしまった防御壁に、覗き穴を作ってみる。

発作で苦しみ続けた“わたし”にだけ向けていた視線を、“周り”にも向けてみること。

知識不足から来る無理解と、何気ない言葉に囲まれ、頼る事も甘える事も期待する事も禁じ、自分を守る事しか考えていなかった私。そんな私にとって、その視線を外に向ける事は冒険。ハッピーエンドが待っている保証なんてなく、更に傷つく事が待ち受けているかもしれない。

でも。

傷ついた“わたし”をなかった事にするのではなく、無視するのではなく、忘れ去るのではなく、それらを踏まえた“これから”を作っていくこと…。

いつまでも後ろを向いているのは本望ではありません。

いつまでも過去に捕らわれるのも。

でも、押し込んで抑え込んできたものから目を逸らし、いつ爆発するか分からない火薬の詰まった爆弾を抱えながら綱渡りな人生を歩むのは嫌。まだ23なのに。

いつ死ぬか分からないとはいえ、棺桶にまで膿んだ過去を持ち込むのは嫌。

癒されない傷を抱えたまま自分が親になった時、私は自分の子供を心から愛せるのでしょうか?

十分に愛されていないと思いながら成長し、十分に愛されていることを認められないまま自分が親になった時。

自分の子供がもし喘息を患ったら、苦しむ子供を前に私は本気で子供のことを心配できるのでしょうか?

「私も独りで我慢してきたのよ。だから、それでもこうやって大人になったんだから、その程度で弱音を吐かないで」と、言わない保証があるでしょうか?

自分が経験した苦しさを子供にも味わわせたいと思う親はいないかもしれない。

でも、発作は我慢するものと思い込んで育った人が親になった時、その親が子供に同じ事−我慢する事−を求めないと言えるでしょうか?

私は我慢してきたのよ、と…。

そんな未来は作りたくありません。そんなことは望まない。

だから…。

最も、今まで“喘息であるがゆえの過去”を免罪符として使ってきた私です。

急に人が変わったように視界が広がるわけではない。けれど、意識する事によって少しは変わるところもあるのではないかと思います。

何よりも、自分に対して見え透いた口実を使わなくなる。免罪符が使えないと言う事は、100%自分に対して責任を持たなければいけなくなる。

“昔が…、ずっと…だったから”とは言えなくなる。

それは少し辛い事。自分を甘やかせてきた私には。

けれど、もう、“言訳”はいりません。

“免罪符”は必要ない。

押し殺してきたnegativeな数々のものは、かなりきれいに昇華されました。

淋しい夜を知っているのなら、理解されない辛さを、気管支狭窄の苦しさを知っているのなら、同じような悲劇をまず自分が起こさないように気をつけたい…。多少の事ではgive upしない精神力も身についたようです。

あの発作を乗り切ってきたのですから。

呼吸筋も鍛えられたでしょう。多少の酸欠は適応できる。

“これから”につなげる為に。私が私の幸せな“未来”を勝ち取る為に。

過去に振り回されない。

もう、喘息を言訳には持ち出さない。

“免罪符”にはしない。

周りにも視線を向けてみる。

それが、結論

数ヶ月前、私は母と電話で話す機会がありました。

そして、母の一言が胸に刺さって抜けなかったのだと、あの時の私が言えなかった事をすべて話しました。いまさらかもしれませんが、私には必要だったのです。

すべてを話して、私は12年間捕らわれ続けた母の言葉から解放されました

止まった時計のネジを巻き、ねじれた時間を元に戻す…。

「あなたが、お母さんを拒絶したのよ?」

母は言いました。

そう、私はちゃんと愛されていたのです。

ただ、最初の衝撃が余りにも大きかったから、弟が成長し母が私を構えるようになった頃には私はもう耳をふさぎ、目をふさぎ、口をふさいでしまっていただけで…。

前向きに生きる気になったからと言って、何もかもすべてがうまく行くわけではないでしょう。

実際、前回今回で並べあげてしまったように、negativeな記憶はしっかりと残っています。培われてきた人間不信がすぐに解消されるわけでもなく。

もしかしたら、独りで過ごしてきた夜と同じだけの時間をかけて、私は心から人を信じる事を覚えていくのかもしれません。

それはわからない。

でも、もう、捕らわれるのは嫌。

もう、喘息を原因とする孤独を感じるのは充分でしょう…。

もう、未来に向かって踏み出してもいい頃…。

きっと…。